日本歴史地名大系 「三明寺村」の解説 三明寺村さんみようじむら 福岡県:浮羽郡田主丸町三明寺村[現在地名]田主丸町竹野(たけの)富本(といもと)村の東に位置し、山辺(やまべ)往還に沿う。耳納(みのう)山地山腹には松植立山・御立藪がある(上三郡絵図)。文亀二年(一五〇二)三月三日の大友親治宛行状案(草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)によると、草野中務少輔(重永)の本新望の地に竹野(たかの)郡「三明寺」三〇町などがあり、永正五年(一五〇八)一一月三日に草野太郎(興秀)に安堵されている(「草野興秀知行目録案」同上)。本高は一九三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四一〇石・役高三七八石。 三明寺村さんみようじむら 鳥取県:倉吉市三明寺村[現在地名]倉吉市巌城(いわき)・幸町(さいわいちよう)・昭和町(しようわまち)一丁目田内(たうち)村の南西、向(むこう)山の南麓、小鴨(おがも)川北岸に位置し、村の西部に小鴨川から取水する北条(ほうじよう)用水堰の取水口がある。村名は戦国期に当地に所在した寺院三明寺(寺基は現山名寺が継承する)にちなむという。藩政期の拝領高は七五石余、本免は五ツ二分。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。寛政年間(一七八九―一八〇一)の久米郡御通筋厘付帳(県立博物館蔵)では本田高七九石余(うち畑高八石余)、古開高七三石余と新開高一三石余(請免二ツ八分)を加え今高一六六石余、物成七五石余、家数二五、男八五・女八一、牛七。 三明寺村さんみようじむら 岡山県:御津郡建部町三明寺村[現在地名]建部町三明寺標高二〇〇―三〇〇メートルの山地に広がり、東は下籾(しももみ)村(現久米郡久米南町)、西は和田南(わだみなみ)村、南は川口(かわぐち)村、北は角石谷(ついしたに)村に接する。「西作誌」は、三明寺はもとの寺名で、その跡地を堂屋敷というと記す。寛文一〇年(一六七〇)の豊楽寺由緒書(豊楽寺文書)には、末寺として「三明寺村雲峯山三明寺当蔵坊」があり、元禄四年(一六九一)までに廃寺となったと思われる。美作国久米北条(くめほくじよう)郡に属し、正保郷帳では高三六八石余、うち田高一五二石余・畑高二一六石余で、芝林山・芝山がある。改出高一二二石余、正保四年(一六四七)より元禄一〇年までの開高六石余(美作国郡村高辻帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by