日本歴史地名大系 「三机浦」の解説
三机浦
みつくえうら
「宇和旧記」三机浦の項に「中尾城、此城主は井上善兵衛重房と云、此親父之時、河野殿より傍折敷に三文字の紋を給はる由、其昔は此処へ度々海賊等仕掛候て、万民住宅の心も静ならざる所に、萩森殿より、此人を被遣てより、所も繁昌し、家居も数々出来たりと云へり」と記され、この地域にも河野氏の威勢が及んでいたことが推察される。中尾城は戦国末期
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「三机浦 柴山有、茅山有」とみえる。「大成郡録」によると、太閤検地(天正一五年―文禄三年)の石高は三五一石二斗四升、耕地面積の比率は田三三パーセント、畑六七パーセントであったが、寛文検地(寛文一〇―一二年)では石高が一・五倍に増え、田七パーセント、畑九三パーセントの比率に変わっており、この間、段畑の開発が著しい。また、宝永三年(一七〇六)の戸数二三三、人口一千六一三、牛一四二、馬九六、鮗網一帖、小舟五六艘、宝暦七年(一七五七)の戸数三九二、人口二千二六四、牛一五三、馬一〇六、鰯網一五帖、網一帖、鮪網三帖、網船二五艘、荷船一艘、小舟五六艘とあり、漁業への依存と運輸業の発達がうかがわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報