三崎町(読み)みさきまち

日本歴史地名大系 「三崎町」の解説

三崎町
みさきまち

[現在地名]三浦市三崎一―四丁目・城山しろやま

北方は東から東岡ひがしおか村・中之町岡なかのちようおか村・二町谷ふたまちや村と接し、東は北条ほうじよう湾を隔ててむこうさき村、西はじよう村と接し、南は瀬戸を挟んでじようしま村。見崎・御崎などとも記され、三浦崎・三崎津ともいわれた。

和名抄」に「御浦郡 御」とある。海岸の佳景は「吾妻鏡」寛喜元年(一二二九)四月一七日条に「於勝地比類歟」と記され、同書によれば源頼朝は建久五年(一一九四)閏八月一日に「於三崎津御山荘」のために当地を訪れ、三崎御所・三崎山荘・三崎別業と称されたこの別邸には頼朝や実朝などが度々来訪している。また宝治二年(一二四八)九月一九日条によれば、当地より鎌倉名越なごえ方面に向かって黄蝶が群飛したという。実朝は「玉葉集」に「みさきと云ふ所へまかり侍りける道に」老松を見ての一首を収める。仁治三年(一二四二)鎌倉遊覧の足を延ばした「東関紀行」の作者は「三浦のみさきなどという浦々を行きてみれば、海上の眺望あはれを催して、こしかたに名高く面白き所々にも劣らずおぼゆ」と感嘆し、

<資料は省略されています>

と詠じ、虎関師錬も詩文集「済北集」に当地の一詩を収め、文明一八年(一四八六)八月には房州より海路で聖護院道興が(廻国雑記)、同年には尭恵も訪れている(北国紀行)。「北条五代記」にも「三浦三崎にまさる名所ありかたし」とあり、永禄八年(一五六五)三月には北条氏康が来訪している。

建長五年(一二五三)一一月二一日の近衛家所領目録(県史一)三崎庄がみえる。建武二年(一三三五)九月二七日の足利尊氏充行下文(県史三)では、松輪まつわ金田かねだの近隣の地などとともに中先代の乱の恩賞として三浦高継に宛行われる。小田原衆所領役帳に山中彦十郎「廿貫文 三浦三崎之内」、三崎十人衆「廿三貫五百文 三崎内」を載せる。三崎十人衆は、「北条五代記」によれば旧三浦氏家臣が取立てられ、当地を根拠にし海賊衆と称せられた水軍で、当地はまた同書に「三浦三崎に悉く舟をかけをく」「数百艘の舟をかけおく」とあるように里見氏に対する北条氏水軍の根拠地でもあり、同書や「北条記」などによれば前の海では両軍の舟戦が何度も行われた。


三崎町
みさきちよう

面積:三四・一二平方キロ

佐田岬さだみさき半島西端の農漁業の町。北は伊予灘、南は宇和海に面し、西端は佐田岬。山稜には伽藍がらん(四一四メートル)を主峰とする山地が東西に走り、平地は乏しく、段畑では夏蜜柑が栽培される。「三崎牛」の産地として知られる。岬の先端に近いくし与侈よぼこり正野しようのは、県下唯一の海士集落で、鮑・栄螺・天草などを採取している。海士は現在一二五人といわれ、昔は裸潜りであったが、現在は簡易潜水服を着用する。先端の灯台と大島の間には蓄養場もでき、採集した鮑・伊勢海老などを蓄養して出荷している。ほかに、一本釣や大敷網漁業が行われる。


三崎町
みさきちよう

現JR水道橋すいどうばし駅の南側にある町名。一帯の地域呼称でもある。江戸時代初期以来武家地であったが、安政六年(一八五九)になると築地から講武所が移転してきた。明治維新後講武所は陸軍調練場となり、フランス軍人のお雇い教師の指導で軍事訓練が始まったが、明治二三年(一八九〇)練兵場跡地二二万二千七四六坪が三菱合資会社に払下げられ、同社の造成により市街地化した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三崎町」の意味・わかりやすい解説

三崎町
みさきちょう

東京都千代田区北部、中央線水道橋駅南側の地区。かつては江戸川小石川が流れ、沼地の中に岬状の陸地が形成されたのが地名の由来という。町内には建久(けんきゅう)年間(1190~1199)創建、天文(てんぶん)年間(1532~1555)北条氏綱(うじつな)により再建と伝える三崎稲荷神社(みさきいなりじんじゃ)がある。幕末期、講武所が築地から移った地で、現在も日本大学、東京歯科大学水道橋病院などがある。

[沢田 清]

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