日本歴史地名大系 「三崎浦」の解説
三崎浦
みさきうら
「大成郡録」に記された太閤検地(天正一五年―文禄三年)の石高は六六二石七斗六升、耕地面積の比率は田三三パーセント、畑六七パーセントであったが、寛文検地(寛文一〇―一二年)では石高が一・二倍に増加し、田九パーセント、畑九一パーセントと大きく変化し、山畑の著しい開発がうかがわれる。また、宝永三年(一七〇六)の戸数は三三七、人口二千二二九、牛八七、馬四一、鰯網一帖、鮗網一帖、荷船二艘、小舟九九艘、宝暦七年(一七五七)の戸数は四四八、人口二千六二〇、牛五一、馬三〇、鰯網三帖、網船四艘、小舟七八艘となっている。
岬端部には海士の集落が多い。天保四年(一八三三)に書かれた横瀬武直の「四国中国廻浦御用日記」に、当浦の海士について次のように述べている。寛政一一年(一七九九)までは、宇和島藩領内の漁村に海士はなく、漁民は農業の余暇に「鉾突遊漁」をしているだけであった。そこで長崎(現長崎市)から「水練稼之者」を呼び寄せたところ海士が多くできた。三崎浦庄屋兵頭又左衛門に聞くと、海士が三〇人あり、一年間に鮑を六千貝ほど献上し、その稼場は三崎・三机両浦であった。従来、領内の鮑は生貝で摂津・兵庫・中国・四国方面へ、生鮑生船で移出していたが、その後は干鮑で長崎へ回すようになった。また領内の煎海鼠の請負高は、一年間六千六〇〇斤であり、献上煎海鼠を除いて残る分は長崎に回すという規程に、文化八年(一八一一)からなっていたとある。
三崎浦
みさきうら
三崎村内にあった浦方。「土佐州郡志」は三崎村とは別に「三崎浦 東西一町南北三町、戸凡百十八・船二十三」と記す。
天正一八年(一五九〇)の三崎之村地検帳の塩浜帳によれば桜ノ浜・イマノ浜・タイマツノ浜に計四〇の塩浜があり、同帳末尾に「三崎之内四至傍爾之事」として「海上境目ノ事、東ハ松サキノ鼻ニ玉スケバイト云ハイヲ限、地蔵ノ尾ヨリ見アテニ興ヘ此分ナリ、西ハ太村ハイノ興アナハト云ハイヲカキリ、ナギサノ見アテハヤスハイト云ハイヲ見アテニスル」とある。
慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)に三崎浦刀禰がみえ、天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によると水主数八三、船数一四(廻船四・漁船一〇)。宝永七年(一七一〇)の下灘浦々縮書は以下の諸数値を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報