三波川村(読み)さんばがわむら

日本歴史地名大系 「三波川村」の解説

三波川村
さんばがわむら

[現在地名]鬼石町三波川

東御荷鉾ひがしみかぼ(一二四六メートル)の東、神流かんな川支流の三波川が東西に貫流し、北は高山たかやま村・多胡たご上日野かみひの村・下日野村(現藤岡市)、東は浄法寺じようぼうじ村・鬼石村、南は甘楽かんら譲原ゆずりはら村・保美濃山ほみのやま村・坂原さかはら村、西は同郡柏木かしわぎ(現万場町)と接する。地質大部分が古生層三波川式変成岩類で、随所に美しい結晶片岩の露頭がみられる。

天文二一年(一五五二)北条氏康が関東管領上杉憲政を敗走させた後の三月二〇日、北条氏は「三波川谷北谷百姓」の在所帰住を令する。その朱印状(飯塚文書)は「北谷百姓中」に宛てられ、三波川流域は北谷きただにと称されていた。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「北谷村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。のち長井政実が上杉氏から武田氏に服属して北谷の実権を握り、三波川の飯塚氏に知行宛行・安堵をしている。同九年七月一日には本領「北谷大なら馬助分」八貫文と同所抱分二貫文などの安堵の判物(飯塚文書)を与え、天正六年(一五七八)二月一二日の判物(同文書)で近世には当村の枝村となる琴辻ことつじ知行高を一貫五〇〇文に定め、同八年七月二日にも「大奈良」三貫文などの安堵の判物(同文書)を出している。戦国期には飯塚氏や根岸氏など「北谷衆」とよばれる土豪がいた(天正一三年三月二一日「北条氏邦朱印状写」同文書)。同一四年に「北谷之郷」の検地が北条氏によってなされ、本増ともに一〇三貫一七六文の年貢高となり、増分は二三貫文余あったが、うち一一貫文余が免除された(同年一〇月一九日「北条氏邦朱印状」同文書)。同一五年八月二三日に「北谷百姓中」に宛て、当年秋の穀物すべてを箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)に納めるように令し(「北条氏邦朱印状」同文書)、同一七年八月二九日には飯塚氏に北谷年貢銭で黄金と綿をそろえ納めるよう令している(「北条氏邦朱印状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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