三瀬川村(読み)さんぜがわむら

日本歴史地名大系 「三瀬川村」の解説

三瀬川村
さんぜがわむら

[現在地名]周東町大字三瀬川

玖珂郡の西端、北は根笠ねかさ(現美川町)、東南は獺越おそごえ村、西は熊毛くまげ郡の須万すま中須なかずの両村(現徳山市)に接する山間の村。萩藩領で前山代宰判に属した。

村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に、山代八ヵ村の加村として「三千皮」の郷名が記される。三瀬川と記される最初は「閥閲録」所収神田六左衛門家文書の弘治二年(一五五六)三月の毛利隆元感状で、文禄二年(一五九三)九月の年紀のある手島彦三郎家文書(「閥閲録」所収)には「玖珂郡山代三瀬川村庄屋」とある。


三瀬川村
みせがわむら

[現在地名]大宮町三瀬川

船木ふなき村の東、宮川右岸にある。南は標高三二八メートルの三瀬坂みせさか峠。三瀬の渡から難路の熊野街道である。「太神宮諸雑事記」の滝原たきはら宮貞観二年(八六〇)四月二日条に「御瀬川」とみえる。内宮神楽歌のうちの滝原宮の歌に「我等が三瀬坂越えし時犬飼童を先に立て大鷹小鷹を手に据えてけいけいほろろの鳥捕らせむ」とある(稿本滝原宮参向と七箇御薗について)。「神宮要綱」に当地は「真奈胡の御瀬」と号したと記される。応永年中(一三九四―一四二八)三瀬川に改め、延宝年中(一六七三―八一)多気たき郡から度会郡に属したといわれる(県立図書館蔵三瀬川村庄屋文書、「三瀬川村地誌」大宮町教育委員会蔵)


三瀬川村
さんせがわむら

[現在地名]金井町三瀬川

北は立野たての村、東は下横山しもよこやま(以上現両津市)、西は吉井本郷よしいほんごう村、南は吉井下町よしいしたまち水渡田みとだ村。国仲くになか丘陵の中位段丘に立地。慶安石直帳(三瀬川区有)によると、名請人は五八人。田地は地字野田・いばら池の下いけのしたなど二七ヵ所にあり、根津口ねづくち川両岸の沢から吉井沖を中心とする所と、吉井下町境の吉井裏よしいうら川左岸から上流部の刈沢かりざわ中尾沢なかおざわ・しろつちなどの三ヵ所にあたる。


三瀬川村
みせがわむら

[現在地名]清水町三瀬川

北野川きたのがわ村の北方、有田川の支流三瀬川谷みせがわだに川の川筋の山間部に位置し、集落は本村と胡麻窪ごまくぼに分れる。慶長検地高目録には「御祓川村」とみえ、村高九〇石余、小物成四斗二升二合。「続風土記」は三瀬川は御祓川の転訛という。

寛政一一年(一七九九)の三瀬川村持高当作高并人別御調書上帳(堀江家文書)によれば家数二一、人数九三(男四七・女四六)、牛八。木挽職一人、紙漉稼一人、掘稼三人、日用働六人、居村への奉公一人、近隣諸村への奉公一二人がいた。文政三年(一八二〇)の山保田組在々家数人数并牛馬増減調帳(同文書)は家数二五(高持二四・無高下作家一)、人数九二(居村稼人八二・他村奉公人一〇)、牛一〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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