河内神社
かわうちじんじや
[現在地名]朝日村宮ノ下 上山
宮ノ下集落の西方、鷹取山の南東麓に鎮座する。祭神は雲上佐市郎。勧請の時期は不明。江戸時代に成立した「一宮歴代譜」(佐藤敬吉氏蔵)によれば、後白河院の第三皇子雲上佐市郎は越後国の守護として一二人の縁者とともに迎えられ十川の館で政務を執った。しかし雲上公は連日三面川に船を出し川狩をしたり、酒宴を催し扇で沖を通る船をあおいで覆すなどいたずらを繰返し、家臣たちのいさめを聞入れなかった。このため縁者や家臣たちは雲上公を殺害して川へ流してしまった。
河内神社
こうちじんじや
[現在地名]美和町大字滑
福王寺原の地に鎮座。寛永二〇年(一六四三)に藤谷村が分割される以前は、藤谷村の氏神で瀬戸内村大藤谷の「たがしよう口」に鎮座したが、宝永二年(一七〇五)に移転。元禄八年(一六九五)の「寺社記」は瀬戸内村の河内大明神として、次のように記す。
<資料は省略されています>
一〇〇年後の「玖珂郡志」には、正一位河内大明神として祭礼は九月九日、社領二石、御神体自然奇妙石体とし、脇に石体一二座があったことを記す。ほかに大山祇命・中山祇命・羽山祇命・一ツ荒神を祀る。同書には社伝として「当社ハ築紫国袖垣山ヨリ勧請之御神ニテ、大同元年ヨリノ宮作ト申伝フ、藤谷村始リ生産神ト崇敬奉リ、十二村惣氏神也」とある。
河内神社
かわうちじんじや
[現在地名]村上市肴町
肴町の西端、村上城下から瀬波へ通じる道の左側に北向きに鎮座する。樹齢三六〇年前後の欅の老樹に囲まれる。祭神は稲倉魂命。もともとは川とかかわりが深い神社で、雲上佐市郎の伯父治部卿を祀ったと伝える(「一宮歴代譜」佐藤敬吉氏蔵)。社伝によれば、はじめ中貝村の本間喜左衛門により祀られたという。中貝村は鍛冶町裏の三面川近くにあった村で、寛永一九年(一六四二)の南桃川組村々年貢諸役割付帳(板垣総兵衛氏蔵)に村名がみえる。高一九六石二斗余、小物成運上として鮭川役・四分一・木漆・鮭七三尺代が記される。村内に足軽屋敷があった。家数は三十数軒で、しばしば水害に見舞われるので肴町地内馬喰町に移住したという。
河内神社
かわちじんじや
三峰山の吹返峰山頂近くの南面にあり、祭神は大己貴命・少彦名命・日本武尊ほか。慶安三年(一六五〇)藩主真田信政が社殿を改築(「三峰山宝物写」宮下文書)。享保一七年(一七三二)の明細書上(同文書)によると三峰山河内大明神といい、慶長年中(一五九六―一六一五)より当所に祀り、当時の神主は四代目。祭礼は九月の九・一九・二九の三日で、持高畑三反二八歩があった。文化七年(一八一〇)野火のため焼失、現在の社殿は天保三年(一八三二)の再築(「河内明神書上」同文書)。当社は武神としてもあがめられた。社名は利根・片品両河川の内に位置することからとも、平清盛により沼田に流された河内国の宮部義信が、氏神牧岡社を祀ったのが始まりとすることからともいう。
河内神社
かわちじんじや
[現在地名]窪川町作屋
四万十川右岸、入船山南斜面にある。主祭神は天津彦根命・活都彦根神。旧村社。「南路志」には熊野三所権現とみえ、天正一六年(一五八八)の仁井田壱斗俵村地検帳に権現領八反余がみえる。河内神社はその末社であったが、第二次世界大戦以前に熊野社が火災にあい、さらに裏山が崩壊して埋没したため、合祀して河内神社とした。
「南路志」に神宝として鏡・鉾・石玉があるとみえ、鏡・鉾は埋没後に掘出されて河内神社の社宝となっている。
河内神社
こうちじんじや
[現在地名]錦町大字深川 山根
祭神は水波女命。相殿大歳社に天真名鶴神を祀る。旧村社。
「神社明細書」によれば、天禄三年(九七二)当村の神官正木刑部・村長三家本将監が河内国より勧請して創建したという。「注進案」は社伝として、正長年間(一四二八―二九)深川将監・正木刑部太夫が勧請し、一村の鎮守として祀った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 