デジタル大辞泉 「我等」の意味・読み・例文・類語
われ‐ら【我▽等】
1 一人称の人代名詞。「われ」の複数。わたくしたち。われわれ。「
2 一人称の人代名詞。単数を表す。わたくし。わたし。
「この君の御夢―にとらせ給へ」〈宇治拾遺・一三〉
3 二人称の人代名詞。同等以下の者にいう語。おまえたち。
「はてさて―は役に立たぬ」〈伎・姫蔵大黒柱〉
[補説]書名別項。→我等
[類語]私達・私共・手前共・我我
大正から昭和初期の高級評論雑誌。1918年の〈白虹事件〉で大阪朝日新聞社を退いた長谷川如是閑が1919年2月,大山郁夫,井口孝親らと我等社をつくって創刊した。丸山幹治,伊豆富人,大庭柯公らが参加した。《我等》は長谷川のユニークな社会,新聞論,大山の政治批判,また初期マルクスの翻訳紹介なども行い,20年代の日本の思想・文化に大きな足跡を残した。30年3月に一時終刊(通巻128号),嘉治隆一,新明正道らの《社会思想》(1922年4月~29年12月)と合併する形で,同年5月《批判》(月刊)と改題して再出発した。果敢なファシズム批判を続けたが,時流に抗しきれず,34年2月に廃刊した。
執筆者:香内 三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1919年(大正8)2月創刊された大正デモクラシーを代表する総合雑誌。ロシア革命や米騒動の影響を受けて世情騒然たる1918年、『大阪朝日新聞』は右翼と政府の集中攻撃を受け、同紙の花形記者であった長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)、大山郁夫(いくお)ら数名が退社した。長谷川らは「我等はいま何をなすべきか」という立場から我等社をつくって進歩的論陣を張った。30年(昭和5)2月終刊、同年5月『批判』と改題したが、特別高等警察などの弾圧で34年2月廃刊した。
[松浦総三]
大正・昭和期の評論雑誌。1918年(大正7)白虹(はっこう)事件で大阪朝日新聞社を退社した長谷川如是閑(にょぜかん)が,翌年2月に大山郁夫・丸山幹治らと創刊。マルクス主義文献の紹介に努め,社会主義思想の流行をもたらした。またファシズム批判の論説などを掲げたが時流に抗しきれず,30年(昭和5)3月に終刊。同年5月「批判」と改題して再出発した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…15年社会部長のときに全国中等学校優勝野球大会を発足させた。18年白虹事件の弾圧に抗して退社,19年大山郁夫,井口孝親らと我等社を設立し,雑誌《我等》(1930年《月刊批判》と改題)を創刊した。後に《現代国家批判》《現代社会批判》などにまとめられる鋭利でユニークな批判・言論活動を展開し,とくに,送り手の意識のありようにジャーナリズムの本質をみる独自の〈新聞〉理論を打ち立てた。…
※「我等」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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