三野倉村
さんのくらむら
[現在地名]倉淵村三ノ倉
群馬郡に属し、北は関沢川を境に権田村、東は榛名川をもって上室田村(現榛名町)、烏川を挟んで南は碓氷郡水沼村、同郡上里見村(現榛名町)、西は同郡岩氷村。烏川にほぼ沿って大戸道(信州道)が通り、宿場町が発達した。古くは御蔵と称し、貢租を納める御蔵屋敷があったと伝え、御蔵屋敷の地名が残る。
「曾我物語」(妙本寺本)巻五によれば、源頼朝は建久四年(一一九三)四月の浅間の巻狩の際、榛名山西麓の烏川沿いを通っており、「三倉」の地名がみえる。観応三年(一三五二)五月九日付今川範国施行状(鎌倉市中央図書館蔵)により、榛名山寺領「三蔵」は、同寺執行職とともに頼印に与えられている。「頼印大僧正行状絵詞」に南北朝頃榛名山の支配権をめぐる権力争いで、座主快尊方と執行頼印方が烏川で戦ったことが記される。石上に座主の森という塚があり、鎌倉時代と推定される板碑が残るが、快忠・快尊父子と頼印が戦ったところといわれる。また、当村には頼印の住んだ「石上ノ寺」(前掲絵詞)の跡といわれる寺跡があり、座主の森の北方にシン寺といって榛名山衆徒中之坊の里坊であったといわれる寺院跡もある。文化一一年(一八一四)江戸寛永寺から榛名山に対する質問に対し「石神より申出候座主廟所並寺地之跡有之、当時も中之坊持にて当山之挨拶寺と申伝」(一宮文書)と答えている。このように当地は榛名山と関係が深く、石上の上野家は毎年榛名神社の御姿岩の幣帛立替えの際、竹を献上している。
応永二四―三一年(一四一七―二四)頃と考えられる三月二八日付の足利持氏より細川満元に宛てた書状(榛名神社文書)には石神・石津・三倉の地名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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