上岩瀬村(読み)かみいわせむら

日本歴史地名大系 「上岩瀬村」の解説

上岩瀬村
かみいわせむら

[現在地名]羽生市上岩瀬

あいの川左岸の自然堤防上に位置する。一部に旧利根川の搬土作用によって形成された河畔砂丘がみられる。東は上羽生村・中岩瀬村。古くは中・下の岩瀬村と一村であった。地名は文禄三年(一五九四)の利根川締切以前に利根川沿いの地であったことによるという(埼玉県地名誌)

承和二年(八三五)六月二九日付の太政官符(類聚三代格)に「武蔵国石瀬河三艘」として「元一艘、加二艘」とみえる。行路の便を図るため渡舟が増やされているが、この石瀬河は当地辺りの旧利根川とも考えられる。


上岩瀬村
かみいわぜむら

[現在地名]河内長野市岩瀬いわぜ

天見あまみ谷にサイノかみ谷が合するやや谷幅の広くなったところに位置し、北は清水しみず村・下岩瀬村、南は天見村。東と西は深い山。はじめ岩瀬郷に含まれたが、正平三年(一三四八)二月日の松若女田地売券(観心寺文書)に「河内国錦部郡観心寺御庄内岩瀬郷上村」とみえる。観心寺かんしんじ庄七郷(村)の一所。文亀元年(一五〇一)一二月八日の観心寺七郷田数算用日記(同文書)に上岩瀬郷二町五反一七七歩(うち新田一七七歩)、同年とみられる観心寺七郷納帳(同文書)には上岩瀬一〇石五斗九升一合二勺と記される。


上岩瀬村
かみいわせむら

[現在地名]大宮町上岩瀬

久慈川の西岸にあり、北は下根本しもねもと村。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に後家(義篤妻)分として「久慈西上岩瀬郷」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「上岩瀬村」とある。同二一年の御知行割郷帳によると、村高八八八石余は鵜殿安右衛門ら家臣九人の知行地であった。「水府志料」に「此所に板貫、其外諸品荷受の河岸有。此所より馬付にて、大内、下江戸等のかしへ送る」と記され、上岩瀬河岸があって久慈川と那珂川の間を結ぶ陸路の一つであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android