日本歴史地名大系 「下岩瀬村」の解説 下岩瀬村しもいわせむら 茨城県:那珂郡大宮町下岩瀬村[現在地名]大宮町下岩瀬久慈川の西岸にあり、北は上岩瀬村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「下岩瀬村」とみえ、同二一年の御知行割郷帳によると、軽島伊左衛門ら家臣一七人の知行地であった。「水府志料」によると戸数およそ五八。享保一一年(一七二六)の御領内鎮守帳(江原忠昭氏蔵)によると春日神社はかつては岩瀬明神・鏡池(かがみいけ)明神とよばれ、岩瀬郷の総鎮守であったという。元禄年間(一六八八―一七〇四)春日明神と改めた。境内に鏡池があり、「万石長者の娘朝日姫の哀話」が伝えられる。徳川光圀は元禄年間にこの神社に参拝し、歌を残した。 下岩瀬村しもいわぜむら 大阪府:河内長野市下岩瀬村[現在地名]河内長野市岩瀬(いわぜ)天見(あまみ)谷の右岸にあり、南は上岩瀬村と石仏(いしぼとけ)村。東には大原(おおはら)山(三六六メートル)がそびえる。元亨二年(一三二二)一〇月日付の太政権僧正坊政所下文(観心寺文書)に「河内国観心寺領内岩瀬小西見両郷下司職事」とみえる。元弘二年(一三三二)正月二一日の馬三郎田地売券(同文書)には「下岩瀬」とある。紀見(きみ)峠に通じる高野街道に沿うので観心(かんしん)寺が関の設置を願出ている(正平二一年七月二二日「後村上天皇綸旨」同文書)。観心寺庄七郷(村)の一で、文亀元年(一五〇一)一二月八日の観心寺七郷田数算用日記(同文書)に下岩瀬郷一町八反八四歩(うち新田二三四歩)、同年とみられる観心寺七郷納帳(同文書)には下岩瀬七石七斗六升二合五勺と記される。 下岩瀬村しもいわせむら 埼玉県:羽生市下岩瀬村[現在地名]羽生市下岩瀬中岩瀬村の西にあり、南東から南にかけては会(あい)の川左岸の自然堤防で小松(こまつ)村に続く。古くは上・中の岩瀬村と一村で、宝永年間(一七〇四―一一)三村に分れたともいうが(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに岩瀬村一村で高付されている。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by