上石田村(読み)かみいしだむら

日本歴史地名大系 「上石田村」の解説

上石田村
かみいしだむら

[現在地名]甲府市上石田一―四丁目・下石田しもいしだ二丁目・貢川本町くがわほんちよう徳行とくぎよう二丁目

高畑たかばたけ村の西にあり、東をあら川が南東流し、北を貢川が東へ流れて荒川に入る。北寄りをほぼ東西に甲州道中が六町二〇間にわたって通り、往還は村内に入って鉤の手に曲がる。道沿いに並ぶ家居が枝郷の宿石田しゆくいしだを形成した(甲斐国志)。貢川には板橋が架けられていた(宿村大概帳)。また甲州道中南側に並行するように御幸おみゆき道が通る。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)には上石田郷とみえる。反別は田三六町五反余・畑一四町九反余、桑も作った。


上石田村
かみいしだむら

[現在地名]沼津市大岡おおおか

中石田村の北、黄瀬きせ川下流右岸に位置し、同川の対岸東方は本宿ほんじゆく(現長泉町)。天文一一年(一五四二)七月一〇日の葛山氏元判物写(光長寺文書)によると岡宮おかのみや光長こうちよう寺は葛山氏広のとき「上石田五貫文」の寺領を安堵されていた。元亀三年(一五七二)五月二日、武田信玄は永禄一一年(一五六八)一二月の駿河侵攻以来武田方に属した駿河の武士たちに所領を宛行ったが、戸田孫太郎には「上石田之内 小野新右衛門分弐拾貫文」など、当地で合せて二六貫文が与えられている(「武田家朱印状写」判物証文写)


上石田村
かみいしだむら

[現在地名]浜松市上石田町・流通元町りゆうつうもとまちなど

下石田村の北、安間あんま川左岸に位置。松平忠頼領郷村帳では高三三五石余、田一四町余・畑二四町三反余、ほか福伝ふくでん寺領二石・八幡領五石。元和五年(一六一九)の池田川西代官所高帳には高三三五石余のほか、見取午ノ納一石余が記される。正保郷帳では幕府領で田一六四石余・畑一七〇石余、福田寺(福伝寺)領二石・八幡領五石。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高六一五石余、家数九四。幕府領と旗本服部領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領と旗本服部領で、享保郷村高帳では旗本服部領・同松平領の相給。旧高旧領取調帳では旗本服部領(四九九石余)・同五井領(一三三石余)の相給。


上石田村
かみいしだむら

[現在地名]富山市石田

古上野ふるうわの村の北東に位置し、東端を飛騨街道(布市道)が通る。石田村とも記す。寛文四年(一六六四)以降の早い時期に東の布市ぬのいち村から分村したというが、元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳に村名はみえない。初め村の東部を上石田と称したが、のち全村の呼称となったともいわれる。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)に石田村とみえ、高六九九石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高六九九石余・定免三ツ三歩、新田草野高三石・免二歩、定小物成は野役六一匁余。所属組は清水しみず村と同じ。慶応四年(一八六八)の家数四四(うち頭振九)・人数一八五(うち頭振二八)であった(郡方人別書上帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android