福田寺(読み)ふくでんじ

日本歴史地名大系 「福田寺」の解説

福田寺
ふくでんじ

[現在地名]近江町長沢

布施山と号し、浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。湖北十ヵ寺の一つ。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔覚乗より頓乗へ〕

寺蔵の由緒書によれば、もと忍海部おしのべ布施ふせ(現滋賀県長浜市)にあって、息長おきなが成功じようこう院と号した。息長宿禰の旧跡といい、覚乗が本願寺覚如に帰依し、法名とともに寺号も許されたと伝える。覚乗が延慶三年(一三一〇)に見た夢告に基づき、暦応二年(一三三九)現在地に寺基を移したという(「布施山温古記」寺蔵)。一二本の光明に化仏をもつ阿弥陀絵像(寺蔵。以下所蔵先を明記しない絵像・文書類はすべて寺蔵)は南北朝期にさかのぼると思われ、また「大谷本願寺通紀」にも覚如の門弟として「覚乗江州長沢福田寺」とみえ、南北朝期には真宗寺院として存立していたことは間違いない。覚乗以降、頓了・性善・覚寿・理観と次第するが、その動向はまったく不明で、越前吉崎よしさき(現福井県金津町)の蓮如に陪従したといわれる六代頓乗・七代俊については多少明確になるところがある(前掲温古記)。頓乗は文明六年(一四七四)八月に蓮如より寿像を、翌七年三月には親鸞絵像を「江州坂田南郡長沢福田寺常住物也」の裏書で下付されている。蓮如寿像・同裏書は蓮如下付の絵像でも定形化される以前の形態を示す。文明六年七月加賀門徒蜂起の際、蓮如は吉崎に留錫中であったので、頓乗も吉崎において蓮如・親鸞の絵像を下付されたものと思われる。なお俊は本願寺を継職する以前の蓮如より永享一〇年(一四三八)一二月に「口伝鈔(寺蔵上巻奥書)、文安四年(一四四七)一月に「安心決定鈔」(大阪市慧光寺蔵奥書)、宝徳二年(一四五〇)には「御伝鈔」(龍谷大学蔵奥書)を授けられている。当時の宗主は巧如・存如であったが、絵像下付・聖教授与は北陸路の要衝にある当寺が教団形成上、重要な位置を占めていたことをうかがわせる。


福田寺
ふくでんじ

[現在地名]田野町 芝

しばの古い町並の間に寺門を開き、本堂背後を国道五五号が走る。浄土宗西山禅林寺派に属し、見龍山宝徳院と号する。本尊阿弥陀如来。「南路志」所引の寺記などによれば、京都より下って田野の開発者となった高田法橋が次男を出家させ(一世相尊)、文治元年(一一八五)田野惣中の祈願所として、現在地の北方上地かみじに一寺を建立し正伝しようでん寺と号したのに始まる。一説では禅宗寺院であったというが、開基年代と矛盾する。鎌倉末期には隆盛し、三世隆尊は元応二年(一三二〇)脇寺として東に東光とうこう(本尊薬師如来)、西に西にしの坊(本尊観音菩薩)を建立したが、その後の度度の火災で衰微した。


福田寺
ふくでんじ

[現在地名]下京区本塩竈町

東岡山と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、文永九年(一二七二)二月鎌倉幕府将軍宗尊親王が帰洛し、剃髪後尭空と名乗り、同年三月に東山渋谷しぶたに(現京都市東山区)に天台律を修して一堂を創し、福田寺と号したという。その後、弘安五年(一二八二)時宗に改め、汁谷しるたに道場と称したという。応仁の乱以後の景観を描くという中昔京師地図には、六条大路末の渋谷道に面して仏光ぶつこう寺の東側に寺地が描かれる。文明一八年(一四八六)七月の金光寺末寺帳に記載があり、市屋いちや道場金光寺の末になっていたらしい(坊目誌)


福田寺
ふくでんじ

[現在地名]左京区花背別所町

花背はなせ峠を北へ下る旧道沿いに位置する。曹洞宗、本尊釈迦如来。創建期は明らかでないが、叡山三千坊の一といわれ、もと天台宗(京都府愛宕郡村志)。平安時代には北方弥勒浄土の地にある寺として信仰を集め、付近には花背経塚が営まれた。出土品は山城国花背別所経塚群出土品(奈良国立博物館寄託)として国の重要文化財に指定されている。銅経筒に仁平三年(一一五三)三月の銘がある。本尊の傍らに安置され「黄金の仏」と称される金銅製毘沙門天立像(仁平二年銘)も、この経塚から発掘されたものである。


福田寺
ふくでんじ

[現在地名]福山市芦田町福田 田辺多

福田ふくだの中央に所在。天法輪山福性院と号し、真言宗大覚寺派、本尊十一面観音。山門の奥に唐破風の向拝、二重の屋根にさらに入母屋造の小屋根をあげた異様な本堂があり、地方では珍しい本瓦葺の多宝塔がある。いずれも慶長年間(一五九六―一六一五)の建築。

寺伝では貞観元年(八五九)の草創といい、本尊は春日仏師の作といわれる。「西備名区」によると、昔ここにあった巨松に二羽の鴻が巣をつくり、雛を育てて飛去ったが、その巣が霊光を放ち、一夜、大風で吹落ち、中に観音像と天寇の神像、天寇の上に竜をいただく三体が出現、これを祀り、鴻巣観音とよんだという。


福田寺
ふくでんじ

[現在地名]芦刈町大字芦溝字小路

芦刈町の北部にある。山号は鶴鹿山。曹洞宗。本尊は地蔵菩薩

徳島孫八郎盛秀の妻阿福(竜造寺家純の女)は孫八郎の死後尼となり、筑前南林なんりん(現福岡県糸島郡志摩町)の松岩英祝を招じて開山とし、永禄二年(一五五九)当寺を創建した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「福田寺」の解説

福田寺

(滋賀県米原市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福田寺の言及

【田野[町]】より

…1864年(元治1)当地の豪士清岡道之助ら安芸郡下の土佐勤王党関係者23人が東方,現北川村の野根山に屯集して藩政の転換を求めるという野根山事件が起こり,捕らえられた彼らは奈半利河原で処刑された。町内福田(ふくでん)寺にその墓がある。温暖な気候に恵まれ,製材業と施設園芸を主体とする農業が盛んである。…

【舎利容器】より

…舎利の安置に際しては,荘厳具(しようごんぐ)として供養品を伴うことが多く,すでにピプラーフワーにおいて多くの供養品が発見されている。中国の舎利容器は隋の文帝が仁寿年間(601‐604)に各地に建てた舎利塔のものが有名であり,仁寿4年(604)造立の蘄州福田寺の例では舎利をガラス瓶に納め,それを金合子,銀合子,金銅合子に入れ子にし,それを石櫃に入れている。唐代の開元9年(721)造立の河北省獲鹿本願寺例でも,舎利を納めたガラス容器を金,銀,石の順で入れ子にしている。…

※「福田寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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