日本歴史地名大系 「福田寺」の解説
福田寺
ふくでんじ
〔覚乗より頓乗へ〕
寺蔵の由緒書によれば、もと俊については多少明確になるところがある(前掲温古記)。頓乗は文明六年(一四七四)八月に蓮如より寿像を、翌七年三月には親鸞絵像を「江州坂田南郡長沢福田寺常住物也」の裏書で下付されている。蓮如寿像・同裏書は蓮如下付の絵像でも定形化される以前の形態を示す。文明六年七月加賀門徒蜂起の際、蓮如は吉崎に留錫中であったので、頓乗も吉崎において蓮如・親鸞の絵像を下付されたものと思われる。なお
俊は本願寺を継職する以前の蓮如より永享一〇年(一四三八)一二月に「口伝鈔」(寺蔵上巻奥書)、文安四年(一四四七)一月に「安心決定鈔」(大阪市慧光寺蔵奥書)、宝徳二年(一四五〇)には「御伝鈔」(龍谷大学蔵奥書)を授けられている。当時の宗主は巧如・存如であったが、絵像下付・聖教授与は北陸路の要衝にある当寺が教団形成上、重要な位置を占めていたことをうかがわせる。
福田寺
ふくでんじ
福田寺
ふくでんじ
福田寺
ふくでんじ
福田寺
ふくでんじ
寺伝では貞観元年(八五九)の草創といい、本尊は春日仏師の作といわれる。「西備名区」によると、昔ここにあった巨松に二羽の鴻が巣をつくり、雛を育てて飛去ったが、その巣が霊光を放ち、一夜、大風で吹落ち、中に観音像と天寇の神像、天寇の上に竜をいただく三体が出現、これを祀り、鴻巣観音とよんだという。
福田寺
ふくでんじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報