上間村(読み)ういーまむら

日本歴史地名大系 「上間村」の解説

上間村
ういーまむら

[現在地名]那覇市上間うえま一丁目・上間・長田ながた二丁目

国場くくば村・仲井真なけーま村の東に位置し、北は識名しちな村。村の東部から南部を国場こくば川が流れる。ウィーマと発音する。小字当原あたりばる集落が形成されていた。真和志まーじ間切に所属し、間切番所の所在地。絵図郷村帳に「上摩村」、琉球国高究帳には「上磨村」とみえ、高頭一五六石余、うち田一一八石余・畠三八石余。村名の由来として本部むとうぶ間切上間ういーま(現本部町)の上間大主との関連が伝承されている(「球陽」尚円王附条、「識名誌」)


上間村
うわまむら

[現在地名]柵原町上間

松尾まつお村の北東に位置する山間の村。東は長内ながうち(現英田郡美作町)。北は宮山みややま村で、同村より分郷したという(東作誌)正保郷帳に村名がみえ、田一一八石・畑三八石。元禄二年(一六八九)の差出控(弓斎収集史料)では高一八六石余、林山五町六反余、家数三三(うち本百姓一一・名子家来二二)。「東作誌」では家数二九、男六二・女五四。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は柵原村とほぼ同様だが、播磨龍野藩預地になったのは寛政六年(一七九四)であった(美作国郷村支配記)。享保一〇年(一七二五)和気わけ谷筋やその東に位置する上間・重藤しげとう塩気しおけ各村をはじめ勝南しようなん郡の村村の干害は甚大で、郡惣代は土居どい代官所(現英田郡作東町)に救いを請うが聞入れられず、行延ゆきのぶ村の矢吹正勝と当村の川上孫三郎が同代官所保木佐太郎に迫って幕府への出訴の許可を受け、翌一一年江戸表へ出立、首尾よく救恤を得て帰国している(美作略史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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