日本大百科全書(ニッポニカ) 「勝山藩」の意味・わかりやすい解説
勝山藩(安房国)
かつやまはん
安房(あわ)国勝山(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町)周辺を領有した譜代(ふだい)小藩。1869年(明治2)加知山(かちやま)藩と改称。1622年(元和8)内藤清政(きよまさ)(常陸(ひたち)ほか2万6000石)が安房国に領地を移され、平(へい)・長狭(ながさ)2郡内に3万石を領有して立藩。翌年清政は没し無嗣(むし)除封となったが、26年(寛永3)弟正勝に遺領のうち2万石が与えられた。29年正勝も没し、その子重頼(しげより)は幼少のため5000石に減封、一時廃藩となった。その後68年(寛文8)酒井忠国が叔父忠直(若狭小浜(わかさおばま)藩主)の領地のうち、安房国平郡、越前(えちぜん)国(福井県)敦賀(つるが)郡内において1万石を分与され、勝山に居所を営みふたたび立藩した。忠国は82年(天和2)寺社奉行(ぶぎょう)に昇進、5000石を加増され1万5000石となった。そのあと忠胤(ただたね)(弟に3000石を分知)、忠篤(ただあつ)、忠大(ただもと)、忠隣(ただちか)、忠和(ただより)、忠嗣(ただつぐ)、忠一(ただかず)、忠美(ただよし)と続き9代、約200年余にわたり在封した。この間、1770年(明和7)には家臣稲葉重左衛門の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と年貢減免をめぐって大規模な百姓一揆(いっき)が起こっている。1871年(明治4)廃藩となり、勝山の地は加知山県、木更津(きさらづ)県を経て、千葉県に編入された。
[川村 優]
『『千葉県史料 近代篇 明治初期1』(1968・千葉県)』
勝山藩(美作国)
かつやまはん
美作(みまさか)国真島(まじま)郡勝山(岡山県真庭市)に置かれた譜代(ふだい)小藩。所領は真島郡92か村、2万3000石。藩主は三浦氏。城地は美作南部、旭(あさひ)川と新庄(しんじょう)川との合流地点にあり、美作・播磨(はりま)・備前(びぜん)と伯耆(ほうき)・出雲(いずも)を結ぶ出雲街道の要所にあたる。この地はもと高田といい、南北朝期以来三浦氏が高田城に拠(よ)って勢威を振るっていたが、毛利氏に追われた。江戸時代に入ると森忠政が津山藩主となって美作一国を支配し、この地も津山藩領に属したが、1697年森氏改易となり、その後は幕領となっていた。1764年(明和1)6月、かつての三浦氏の一族にあたる三河国(愛知県)西尾藩主三浦明次(あきつぐ)がこの地に移され、城地再興を許されて旧高田城の地に築城、勝山藩と称した。明次は入部するや築城とともに藩校明善館を開いて藩士子弟の教育を図った。以後子孫相承すること10代にして明治維新に至り、1869年(明治2)7月真島藩と改称したが、2年後に廃藩置県を迎え、真島県、北条県を経て岡山県に編入された。
[松尾 寿]
『森本清丸編『勝山町史』全2巻(1974・勝山町)』
勝山藩(越前国)
かつやまはん
越前(えちぜん)国大野郡(福井県勝山市)に本拠を置く2万2700石の譜代(ふだい)藩。藩主小笠原(おがさわら)氏は清和(せいわ)源氏、鎌倉時代以来の名門。室町時代に深志(ふかし)小笠原、松尾小笠原の両家に分かれ、深志系は豊前(ぶぜん)(福岡県)小倉(こくら)15万石に封ぜられ、松尾系の後裔(こうえい)が越前勝山藩主となった。
当地は、名刹(めいさつ)平泉寺(へいせんじ)の支配地域であったが、1574年(天正2)一向一揆(いっこういっき)によって寺を焼亡した。一揆勢はこのとき拠点の村岡山(むろこやま)を「勝山(かちやま)」に改めた。80年、柴田勝安(かつやす)は村岡山の城を南1.5キロメートルの九頭竜(くずりゅう)川東岸袋田村に移し、以来この地を勝山と称することになった。江戸時代の当初、福井藩松平家領として城代が置かれたが、1644年(正保1)幕府領となった。1691年(元禄4)小笠原貞信が美濃(みの)(岐阜県)高須より入封、廃藩置県まで8代、180年間小笠原氏が領有した。2代信辰(のぶとき)のとき旧城の復活を願い城主格を許されたが、城郭の完成には至らなかった。財政は苦しく、越訴(おっそ)・打毀(うちこわし)なども数回発生している。幕末、煙草(たばこ)、生糸、藍(あい)などを藩専売品として煙草改会所(のち産物改会所)を設けた。1871年(明治4)廃藩、勝山・福井・足羽(あすわ)・敦賀(つるが)・石川の各県を経て、再置の福井県に編入。
[舟澤茂樹]