上黒沢村(読み)かみくろさわむら

日本歴史地名大系 「上黒沢村」の解説

上黒沢村
かみくろさわむら

[現在地名]一関市萩荘はぎしよう

北東流する久保くぼ川が磐井いわい川に注ぐ地点の南方にあり、北西と東を下黒沢に挟まれる。南は栗原くりはら片馬合かたませ(現宮城県栗原郡金成町)。東山道の磐井駅を当地に比定する説がある。また当地は前九年の役の古戦場萩の馬場はぎのばば小松こまつ柵の所在地とされる。「陸奥話記」によれば、康平五年(一〇六二)八月一七日磐井郡中山なかやま大風沢おおかざわを経て萩の馬場に到着した源頼義軍と清原武則軍は、五町余離れた安倍宗任の叔父良昭の籠る小松柵を攻撃した。小松柵は「東南は深き流の碧潭を帯び、西北は壁のごとく立てる青巌を負ふ」という要害であったが、攻撃方の深江是則・大伴員季らは岩壁をよじのぼり城中に突入、城中は大混乱となり落城、安倍宗任らは敗走した。九月五日、安倍貞任軍八千余騎が救援にかけつけ、萩の馬場に布陣していた源氏・清原軍との間で大規模な合戦が行われた。

上黒沢村
かみくろざわむら

[現在地名]高根町上黒沢

八ヶ岳南麓、標高六四〇―六九〇メートル付近に位置。南は下黒沢村、北は五町田ごちようだ村。沢田さわだ中村なかむら宮村みやむら原村はらむら枇杷久保びわがくぼの五集落からなる(甲斐国志)。もとは下黒沢村と一村であったが、享保九年(一七二四)以前に上・下二村分立。宝暦二年(一七五二)の上黒沢村明細帳(上黒沢区有文書)では田方一八三石余・反別一九町五反余、畑方九一石余・反別二八町余、家数四八・人数二一三、馬一三。田畑耕作のほか男は秣・薪・田畑こやし取り、女は麻布織など。村の中央をかぶと川が南流するが水量が少なく絶えず干害に苦しめられたため、下黒沢村と組合で西沢にしざわ川を締切って長さ九二町余、幅三尺の西沢井堰(黒沢堰)を引いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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