改訂新版 世界大百科事典 「下り塩」の意味・わかりやすい解説
下り塩 (くだりじお)
江戸時代塩廻船によって江戸に移入された瀬戸内産塩。開府当初の江戸の塩需要は下総行徳,武蔵大師河原など江戸湾岸で産出される地塩(地廻り塩)に依存していたが,江戸の発展は地塩だけではとうてい需要を満たしえず,瀬戸内十州塩に依存せざるをえなくなった。瀬戸内塩は元和(1615-24)ころから江戸に流入しはじめるが,初めは阿波斎田塩,播州荒井塩,同赤穂塩が中心であった。武州川越の商人,榎本弥左衛門の覚書《万之覚》によると1652年(承応1)11月28日から12月5日までに江戸に入津した塩船は230艘で,そのうち100艘が荒井船であったといい,また当時,1年間に江戸に入津する塩船は250~300艘で,積荷は約50万俵であった。その後江戸への入津塩は増加の一途をたどり,1726年(享保11)には167万俵に達している。なかでも阿波斎田塩の占める比率は大きく,幕末ころには100万俵から120万俵に及んだ。江戸に移入された下り塩は,江戸市中はもちろん,関東各地にも売りさばかれた。関東奥地へは主として川船で運ばれたが,弥左衛門覚書によると1655年(明暦1)正月に川越で荒井塩450俵を売り,同年7月26日に300俵,29日に500俵の斎田塩を武州松山の市で販売している。近世中・後期にはしょうゆ生産の盛大化にともなってしょうゆ醸造地帯に大量の塩が流入するようになる。下総銚子のしょうゆ醸造家浜口家では享保の末年ころ約1000俵,幕末には4000俵から5000俵の塩を購入し,同じ銚子の田中家でも1801年(享和1)以降,毎年赤穂塩を2200俵から2500俵買い入れ,それによってしょうゆ1300石から1400石ほどを製造している。また,常州下館の醸造家中村家でも享保期に年間1000俵から2000俵の竹原,波止浜,赤穂の塩を購入している。
江戸でこれら下り塩の流通に携わったのは,廻船下り塩問屋(下り廻船塩問屋)と塩仲買である。廻船下り塩問屋ができたのは1633年(寛永10)ころといわれているが,下り塩問屋,同仲買株が公認されたのは享保期である。下り塩問屋は江戸北堀新町の秋田屋,長島屋,渡辺屋,松本屋の4軒に限定され,塩廻船を一手に引き受けた。天保期の塩問屋の口銭は斎田塩1俵(6貫500目入)について3厘,赤穂塩1俵(9貫300目入)について5厘ずつで,200万俵に近い数量を取り扱う塩問屋の口銭はばく大であった。それだけに塩問屋株は文化年間に〈千両株〉と称され十組問屋の最高株値段を呼んだ。なお,下り塩仲買株は1790年(寛政2)に24軒あったが,変動がはげしく幕末には14軒に減少している。明治維新後,下り塩の流通組織に一時混乱がみられたものの,販売の主流は旧廻船下り塩問屋と同仲買の系統をひく日本橋区北新堀,小網町方面に店舗をもつ塩商であった。
執筆者:渡辺 則文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報