改訂新版 世界大百科事典 「塩廻船」の意味・わかりやすい解説
塩廻(回)船 (しおかいせん)
江戸時代から明治期にかけて,瀬戸内十州塩田の産塩を大坂・江戸あるいは北国などの消費地に運送した廻船。十州塩田で生産される塩は,産地の塩問屋を介して塩廻船に販売されるのが普通であった。塩廻船の船籍地としては大坂をはじめ阿波,淡路,紀伊,伊勢,尾張および北国諸国が多い。他国船に依存するだけでなく,生産地周辺の塩廻船も少なくなく,とくに塩問屋などは,自船を持って塩の輸送に携わった。播州赤穂坂越の奥藤家,備前児島の野崎家,安芸竹原の吉井家,阿波斎田の山西家などが代表としてあげられる。例えば,山西家では1856年(安政3)4月から58年5月までの約2年間に138艘の塩廻船を扱っているが,山西家の持船を中心とする地元廻船が最も多く,ついで淡路船,下関船,紀州船,越前船その他の順である。1艘の積載量は2斗5升俵で5000~6000俵,多いのは7000~8000俵にのぼっている。明治以降の例をあげると,1897年ころ関東行きの赤穂塩の廻船は,赤穂船27艘,浦賀船23艘,紀州船5艘,東京船4艘となっている。また尾張国知多半島の野間(愛知県知多郡美浜町野間)は著名な塩廻船の根拠地で,野間伊藤家の塩廻船をみると,幕末,江戸方面と瀬戸内を年4~5回往復している。関東方面から干鰯(ほしか),〆粕(しめかす),大豆,小麦類を瀬戸内にもたらし,播州赤穂をはじめ瀬戸内各地から塩を仕入れ,東海筋の尾鷲,清水,沼津,浦賀,神奈川,江戸で販売している。1艘の塩の積荷は2斗5升俵で4000~6000俵で,1836年(天保7)ころの一航海の収益は50~60両である。1844年(弘化1)の調査によると,当時の塩廻船の大きさは800石から1000石ぐらいで,乗組員は船頭以下12~13名である。なお,明治初年東京に入津する塩廻船の総数は330艘で,積載塩は210万俵であった。
執筆者:渡辺 則文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報