下土田村
しもつちだむら
[現在地名]岡山市下土田
福崎村の北、門前村の西に位置し、東部を足守川が南流する。天正一〇年(一五八二)高松城水攻めのため福崎・門前村境で同川を堰止めた際、右岸沿いに現生石神社対岸の当村南まで副堤を築いた。「吉備の志多道」は、当村から三手村にかけての堤底には墓石・石仏の類が多いとの伝聞に続けて、近辺の村々の石塔が残らず堤防の敷石となったと記す。慶長六年(一六〇一)木下家定に「生石之内土田村」五一八石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。
下土田村
しもつちだむら
[現在地名]千代田村下土田
天の川左岸の台地上に位置し、水戸街道が村内を通る。東は野寺村、南は上土田村。弘安大田文に南郡として「土田一丁一段三百歩」とある。天正末期に佐竹氏の支配下に入り、慶長七年(一六〇二)以降志筑本堂氏領となり、同年九月に代官彦坂正元によって検地が行われた(「下土田村御縄打水帳」中島静夫氏蔵)。同水帳によれば、田は四一町九反余、畑は一六町八反余、屋敷地四反六畝余、総計五八町二反余。戸数は五九、うち三町以上の百姓五で七割は三反以下の水呑百姓であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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