日本歴史地名大系 「下小路」の解説 下小路したこうじ 岩手県:盛岡市盛岡城下下小路[現在地名]盛岡市愛宕町(あたごちよう)油(あぶら)町門外の北東に延びる六町ほどの侍町(内史略本「盛岡砂子」など)。南西は中津(なかつ)川を隔てて外加賀野裏(そとかがのうら)小路・御持筒(おもづつ)町、北西は三割(みつわり)村に接し、北東は山岸(やまぎし)町につづく。同書によれば、貞享年中(一六八四―八八)盛岡侍屋敷が下された時、諸士の家来(陪臣)を当町へ置いたため下小路と称されたというが、寛永城下図にはすでに油町門に下屋敷出口と記され、これが町名の由来とも考えられる。他町と異なり屋敷割は狭く、表の間数はみな同じであったという。元文城下図に下小路とみえ、油町門外から中津川に沿って両側町として描かれ、北詰の北西に薬園、南東の同川岸に二ヵ所の下小路春木場がある。 下小路しもこうじ 山形県:酒田市酒田町下小路[現在地名]酒田市船場町(ふなばちよう)一丁目・日吉町(ひよしちよう)二丁目上小路の西に南北に連なる両側町で、北は荒(あら)町、南は船場町。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)に猟師(りようし)町西(にし)小路とみえ、長さ七六間・幅四間余、屋敷三六軒。裏へ一六間。この頃船場町は最上川の川底だったため南側は最上川。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)では下猟師町として町域は一町、家数五〇・人数二九九。元禄一〇年(一六九七)の亀ヶ崎城下大絵図でも下猟師町として長さ四八間・幅四間、肝煎長左衛門など三七軒。 下小路したこうじ 秋田県:鹿角市毛馬内村下小路[現在地名]鹿角市十和田毛馬内 下小路正徳二年(一七一二)の毛馬内絵図に「下小路」とある。柏崎(かしわざき)館西麓を通り、古(ふる)町など上級武家町の下を貫く小路町なのでその名がある。南下する濁川(にごりかわ)・高清水(たかしみず)両街道は当麻(とうま)館跡南側で合し、下小路となって本丸西麓から城(しろ)ノ下(した)道となって南に延びる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by