奥州道中(読み)おうしゆうどうちゆう

日本歴史地名大系 「奥州道中」の解説

奥州道中
おうしゆうどうちゆう

江戸時代五街道の一つとされた奥州道中は、江戸日本橋から宇都宮経由で白河までの街道であるが、元和三年(一六一七)日光廟(現栃木県日光市)造営後は日本橋―宇都宮間は日光道中の一部でもあるので、狭義の奥州道中は宇都宮以遠、白河までの街道をさす。享保二〇年(一七三五)道中奉行が出した触書では、白沢しらさわ(現栃木県河内町)氏家うじいえ(現同県氏家町)喜連川きつれがわ(現同県喜連川町)佐久山さくやま大田原(現同県大田原市)鍋掛なべかけ越堀こえぼり(現同県黒磯市)芦野あしの(現同県那須町)白坂しらさか(現白河市)および白河の一〇宿を奥州道中の宿とする(白河市史)。初め奥州海道と表記したが、東海道以外は海道でないとして日光道中その他とともに奥州道中と改称された。ただし一般には奥州街道とも称された。安政五年(一八五八)刊の「五海道中細見記」では奥州道中として日本橋から白河までばかりでなく、仙台・盛岡経由で三厩みんまや(現青森県三厩村)までを記載している。文化年間(一八〇四―一八)完成とされる「白河風土記」では、白河の節で「江戸より当城下までの二十七駅は道中奉行の管轄」とし、その街道名を江戸街道と述べている。しかし同じ節で「奥州街道宇都宮より以北白坂までを里人すべて関東と云ふ」と割注し、奥州街道と表記している。白河以北の奥州道中は脇往還で、勘定奉行支配の道筋であるが、「白河風土記」では、陸奥出羽往還・奥州街道・奥州羽州街道など村ごとに違う呼称を使用している。たぶん各村で書上げた草稿そのままなのであろう。福島城下付近でも出羽奥州往還の称がしばしば使用されている。ただし奥州道中八丁目はつちようのめ宿(現福島市)・奥州道中郡山宿などの用例もあり、呼称は一定していなかった。

白坂のさかい明神から貝田かいだ(現国見町)までの奥州道中の宿およびその間の道程は次のとおりである。境明神―八町―白坂―一里三三町―白河―一里―根田ねた―一里―小田川こたがわ(以上現白河市)―一二町―太田川おおたがわ―二四町―踏瀬ふませ(以上現泉崎村)―三三町―大和久おおわく―八町―中畑なかはた新田―一八町―矢吹やぶき(以上現矢吹町)―二四町―久来石きゆうらいし―一二町―笠石かさいし(以上現鏡石町)―一里一八町―須賀川―一里二八町―笹川ささがわ(現郡山市)―一八町―日出山ひでのやま―一一町―小原田こはらだ―一六町―郡山―二六町―福原ふくわら―二三町―日和田ひわだ―三三町―高倉たかくら(以上現郡山市)―一里七町―本宮もとみや(現本宮町)―一里一八町―南杉田みなみすぎた・北杉田―一里八町―二本松(以上現二本松市)―一里二町―油井ゆい町―八町―二本柳にほんやなぎ(以上現安達町)―一里二町―八丁目―一里二町―若宮わかみや(浅川新町)―一三町―清水しみず(根子町)―一里二五町―福島―二里八町―瀬上せのうえ(以上現福島市)―一里一二町―桑折こおり(現桑折町)―一里七町―藤田ふじた―一里七町―貝田(以上現国見町)で、次は一八町―越河こすごう(現宮城県白石市)に至る。

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改訂新版 世界大百科事典 「奥州道中」の意味・わかりやすい解説

奥州道中 (おうしゅうどうちゅう)

江戸幕府の道中奉行が支配する街道で,五街道の一つ。宿駅は白沢,氏家,喜連川(きつれがわ),佐久山,大田原,鍋掛,越堀,芦野,白坂,白河の10宿。鍋掛,越堀は合宿をなす。千住~宇都宮間の17宿は日光道中に属するが奥州道中をも兼ねる。白河以北は仙台・松前道と称する脇往還で,広義には千住以北を俗に奥州街道とも呼ぶ。当初は奥州筋への道が重視されたが,日光東照宮の造営以後,千住~宇都宮間は日光道中に編入されたとも考えられる。寛永年間(1624-44)ころに整備され,西側に改修されたようである。北関東・奥羽地方の大名の通路にあたり,1822年(文政5)には37家を数えた。日光社参などが予定されるときは,助郷人馬が不足するために,参勤途上の大名は奥州道中を避けて常陸道へ迂回することもあった。江戸後期から北方問題が起こると公用通行が増加し,そのため宿と助郷との間に争論が起こった。また東方の関街道(芦野,黒羽,烏山,板戸河岸)や西方の原街道(白河,黒川,高久,平沢,阿久津河岸)との間では,商品荷物の輸送で,たびたび争いを起こしている。
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百科事典マイペディア 「奥州道中」の意味・わかりやすい解説

奥州道中【おうしゅうどうちゅう】

五街道の一つで,奥州街道ともいう。江戸日本橋から千住(せんじゅ)に出,陸奥白河に至る近世の幹線道路。宇都宮までは厳密には日光道中であった。宇都宮〜白河間10宿を数える。一般には白河以北,福島・仙台・盛岡・青森を経て三厩(みんまや)に至り,さらに蝦夷松前・箱館に達する仙台・松前道も含め奥州道中と称する。中世には白河以北のほぼ同様の道筋を奥州街道と称し,これは古代東山(とうさん)道の後身とされている。
→関連項目羽州街道佐渡路宿村大概帳白河藩栃木[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「奥州道中」の解説

奥州道中
おうしゅうどうちゅう

近世の五街道の一つ。道中奉行の支配に属する。江戸と奥羽地方とを結ぶ幹線路で,宿駅は宇都宮の北から白沢・氏家・喜連川(きつれがわ)・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白河の10宿。千住―宇都宮間は日光道中であるが,奥州道中もかねる。白河以北は松前街道と称される脇往還である。俗称として使用される奥州街道は広義には千住以北をさす。参勤交代で利用する藩は37に及んだ。また東北南部の諸藩の年貢米が多く輸送され,鬼怒(きぬ)川の阿久津・板戸河岸などに送られた。この江戸廻米や商品作物などの輸送をめぐって,奥州道中の東側にある関街道と西側にある原方街道との間で,江戸前期からたびたび争論が発生している。荷物の輸送にあたっては付子(つけこ)が活動した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「奥州道中」の解説

奥州道中
おうしゅうどうちゅう

江戸時代の五街道の一つ。江戸と奥州間の幹線道路
奥州街道ともいう。江戸と宇都宮間17宿は日光道中と兼ね,白河(福島県)まで通じる。宿駅には種々の異説がある。参勤交代に際してこの街道を通行する大名は仙台・会津・盛岡・弘前など37家で,各宿駅には人馬各25が常備されていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「奥州道中」の意味・わかりやすい解説

奥州道中
おうしゅうどうちゅう

奥州街道

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世界大百科事典(旧版)内の奥州道中の言及

【五街道】より

…江戸幕府が直轄した主要な五つの陸上交通路。江戸を起点として四方に達する道で,東海道中山道甲州道中日光道中奥州道中をいう。名称は1716年(享保1)に幕府が公称を一定したが,民間では中山道を中仙道,木曾街(海)道といい,甲州道中を甲州街道ということも慣用された。…

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