酒田町
さかたまち
[現在地名]酒田市本町一―三丁目・二番町・中町一―三丁目・相生町二丁目・中央東町・中央西町・北今町・寿町・船場町一丁目・日吉町一―二丁目・南新町一―二丁目・北新町一―二丁目・栄町・御成町・南千日町・千日町など
ほぼ西流して日本海に流れ込む最上川河口右岸の酒田湊を中心に発達した町。東側の亀ヶ崎城下とともに酒田町・亀ヶ崎城下・亀ヶ崎町とよばれるが、行政的には酒田湊町部分が酒田町組とされ、城下の内町組・米屋町組と区別された。
中世は最上川左岸に湊があったが、大永年間(一五二一―二八)頃には流路と水深が変化したために荒廃し、酒田三十六人衆とよばれる問屋や寺院は慶長年間(一五九六―一六一五)にかけて右岸の平田郷大町付近に移住し、東禅寺城西方の西浜の砂浜を開拓して町並としたのが当酒田町の始まりという。旧地を向酒田といい、右岸の当地を当酒田とよぶ。三十六人衆は鎮守の山王社(現日枝神社)祭礼の旧暦四月中の申日、太陽が日本海に沈む正中線を選んで一ノ丁より七ノ丁まで町割して本町とし、三六人の問丸仲間が居住して酒田町の根幹とした。川岸に船着場や倉庫を造り、本町と結ばれる河岸八町が成立して豪商が軒を並べる繁華街となった。浜街道が向酒田の宮野浦から最上川を渡り、南北に連なる秋田町・伝馬町を通って吹浦(現飽海郡遊佐町)に通じる。一六世紀後半には中町・寺町などの町の骨格ができあがっていた。
三十六人衆の問丸仲間は自らを長人と称して年寄三人と月行事三人を選び、町政を運営した。三十六人衆は奥州藤原氏の残党を祖とする伝承をもつが、すべてがそうではなく、各地から集まった問屋仲間も含めて党的結合をなしたものであろう。天正一五年(一五八七)、当時の領主最上義光から収納米の請払いを命じられた長人粕谷源次郎(「公用留」粕谷文書)、豊臣秀吉の命に応じて義光に軍船四艘を調達した加賀屋(「過所」二木文書)も、問丸仲間であった。粕谷源次郎は、同一八年秀吉の小田原攻めにあたって東国三三ヵ国海上船舶の監視役を命じられている(「粕谷家古記録」粕谷文書)。加賀屋与助は同年出羽角館の戸沢氏が小田原に参陣するための路銀を貸し、文禄元年(一五九二)山城伏見(現京都市伏見区)に伺候する戸沢政盛を往復とも自宅に逗留させた(「借用代物之事」二木文書)。同一九年前田利家は陸奥南部出陣の帰路上林和泉宅に宿泊したが、のちにこの通りを御宿小路と称している。廻船問屋助九郎は領主の求めに応じて軍事的な輸送も請負った(酒田市史)。
酒田町
さかたまち
[現在地名]秋田市旭南二丁目の一部
大町から鍛冶町への町筋、茶町から新城町への町筋と馬口労町とが交わる北側に位置する。土崎湊に上酒田町・下酒田町がある。酒田湊(現山形県)からの移住者により開かれた町と伝える(土崎港町史)。久保田の酒田町は、そこから移転したものであろうか。
「梅津政景日記」寛永六年(一六二九)三月二六日条に、佐竹義宣が割直しを命じた時、政景は「如御意割直申上候、酒田町、上町を始め、茶町六町もさび可申由申上候」と述べた。
酒田町
さかたまち
[現在地名]檜山郡江差町字橋本町
近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。沢茂尻町の北、影之町の東に位置する。「蝦夷日誌」(二編)によると横巷十九町の一で、坂田町とも記され、切石町より右の方、小商人・小宿が居住。当町の並びに阿部町(小商人・日雇・小宿など約五〇軒からなる)があった。「渡島日誌」は町名は羽前酒田(現山形県酒田市)の者が開いたからとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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