下穂積村(読み)しもほづみむら

日本歴史地名大系 「下穂積村」の解説

下穂積村
しもほづみむら

[現在地名]茨木市下穂積一―四丁目・西中条にしちゆうじよう町・岩倉いわくら町・中穂積なかほづみ一―三丁目・紫明園しめいえん穂積台ほづみだい西駅前にしえきまえ町・まつもと町・南春日丘みなみかすがおか一―四丁目・北春日丘きたかすがおか一―三丁目・宇野辺うのべ一丁目

中穂積村の南に接し、千里丘陵東麓沿いにある集落の東を亀山かめやま街道が通る。上穂積村・中穂積村とともに「和名抄島下しましも穂積郷に含まれたと考えられる。古くは「上殿村」と称したと伝え、「摂津志」は「下穂積一名上殿」と記す。元和初年の摂津一国高御改帳に「久定穂積・上敷」とある「上敷」にあたり、江戸時代中頃まで上・中穂積村とともに「穂積村」と称して一村とされ、分村以後も幕末まで領主は同一(→上穂積村。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調によると下穂積村の村高は六五八石余。


下穂積村
しもほづみむら

[現在地名]穂積町穂積ほづみ

上穂積村の南に位置し、東は長良川、西はなか川に接する平坦低地に立地。江戸初期は上穂積村と一村であった。分村後の領主も同じ。正保郷帳に村名がみえ、田五四七石余・畑二三一石余、野川年貢九石。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(松野文書)によれば、寛文一二年(一六七二)検地で高八四五石余・七二町七反余となり、ほかに新開畑一七石余、田四一町余。他村からの入作高三五〇石余。家数一四五(うち高持九七)・人数六六五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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