日本歴史地名大系 「下竹田村」の解説 下竹田村しもたけだむら 兵庫県:氷上郡市島町下竹田村[現在地名]市島町下竹田中央を竹田川が流れ、南は中竹田村、東は田野山(たのやま)峠を越えて天田(あまた)郡田野村(現京都府福知山市)、北は塩津(しおつ)峠を越えて同郡岩間(いわま)村(現同上)。石原(いしはら)・下友政(しもとんまさ)・前木戸(現表)・下村(現下樽井)・中村(なかむら)・寺内(じない)・寺内(枝才田)よりなる(丹波志)。丹後への道が通る。正保郷帳に村名がみえ田高一千一四八石余・畠高二五〇石、日損所・水損所あり。幕府領。天和二年(一六八二)一部と考えられるが陸奥湯長谷藩領となり(「下竹田村代官所関係文書」依田文書)、元禄郷帳では高一千四〇三石余。 下竹田村しもたけだむら 広島県:深安郡神辺町下竹田村[現在地名]神辺町下竹田川北(かわきた)村の東方に位置し、室町時代は上竹田(かみたけだ)に本拠を置く三吉鼓氏の支配下にあり高富(たかとみ)庄に含まれた。毛利氏支配時代には家臣の給地となっており、年不詳五組衆再検高付立(山口県文書館蔵)に「一千百七拾石五斗 竹田」とあり、さらに御再検分として「千九百拾三石一斗 同所」とある。その後竹田は上下二村に分割され、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば下竹田村は一千二八石余。福山藩水野家断絶後一時幕府領であったが、元禄一三年(一七〇〇)福山藩領に復帰。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by