下西条村(読み)しもさいじようむら

日本歴史地名大系 「下西条村」の解説

下西条村
しもさいじようむら

[現在地名]加古川神野町西条かんのちようさいじよう西条山手さいじようやまて一―二丁目・新神野しんかんの二―五丁目・同七―八丁目・山手やまて一―二丁目

二塚ふたつか村の北東に位置し、北西は加古川に接する。中世には西条とみえる。慶長六年(一六〇一)中村市右衛門は下西条村内・二俣ふたまた村内の合計一七〇石の知行を認められた(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図には下西条が東西に隣接して二ヵ所みえる。正保郷帳によれば田方四三六石余・畑方七四石余。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(国立史料館蔵)では高六二〇石余、田二九町六反余・畑一〇町六反余、新田高一二八石余・二一町五反余、小物成は草藁銀・犬米・茶代米・馬扶持米、運上林四、池一〇、農間に筵縄作り・木綿作り、家数一四六・人数六五七、医者一・鍛冶二・桶うす師一・石切一、牛馬二五、八幡宮大歳おおとし神社・住吉大明神、永昌えいしよう(現臨済宗妙心寺派)

下西条村
しもにしじようむら

[現在地名]塩尻市大字下西条

川の左岸にあり西南に中西条村、北は大小屋おおごや大門だいもん村に隣接する。南側から西側にかけて西条城にしじようじよう山・上野城うえのじよう山などがそそり立ち、その北斜面から田川までの平地にあたる。田川はここで右折して北流する。

中世までは塩尻郷西条に属した。西条城山とたち、上野城山と西福さいふく寺付近の館跡、約一キロ近く南の谷へ入って久野くのう寺跡、武田信玄開基の西福寺など中世の遺跡が多い。田川の東側の外田そとだ地籍には民家もあったが享保年間(一七一六―三六)頃までに塩尻宿や大小屋へ移住し、いまは富貴田ふきだ百姓地ひやくしようじ道成街道みちなりかいどうなどの地名のみをとどめている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報