日本歴史地名大系 「下諏訪宿」の解説
下諏訪宿
しもすわじゆく
慶長六年(一六〇一)の「木曾旧記録」には大久保長安が山村道勇に寄せた覚えに「下諏訪のといや・町人、何れも悦候て」とあり、また、同年の「前田慶次道中日記」には下諏訪湯本の町に泊ったことが記されている。下諏方宿定の初見は寛永一九年(一六四二)で、その中には
と記されている。
寛文五年(一六六五)の下諏方町書上には「下諏方宿町高二百四十三石一斗三升八合町通長四町五十間外に五十二間甲州口通りの町この家数八十二軒この地子諏訪因幡守より用捨」とあり、御伝馬数五〇匹、問屋二人、庄屋二軒、町年寄五軒、定使一軒、馬指一軒、諸事小役寺門前二六軒が下諏訪宿の姿であり、定助は岡野屋村(現岡谷市)の一七匹、助郷は一五ヵ村で石高六千一八五・三六石、家数四五九軒、馬数合一五五匹。
宿の中心は綿之湯前の問屋場で、ここからT字形に三方に延び、東の方へ五二間で下社秋宮につき当たり、鉤の手にまがって甲州道中となる。問屋場前で西を向くとだらだらの下り坂で両側に旅籠が並び、京へ向かう道である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報