江戸時代,朝廷より日光東照宮の例大祭に差遣された奉幣使。日光への勅使参向は1617年(元和3)の東照社鎮座に端を発するが,いわゆる例幣使発遣は,宮号を宣下され東照宮と称することになった45年(正保2)の翌年,参議持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮に発遣されたのに始まり,これより例となり毎年奉幣使が下向し,1867年(慶応3)に及んだ。奉幣使は中山道を通って4月15日に日光山に到着,翌16日の朝奉幣した。その次第は,明六ツ時に宿坊浄土院より手輿に乗り,石の鳥居前で下乗し,陽明門内の東回廊待合所へ参入,案内を得て宮門に登り,唐門より裾をひいて階上へ進み,拝殿中央で奉幣の式があり宣命を読む。退去して待合所に候し案内を待って階を昇り,みずからの参拝をも行って奉幣の式を終えた。日光例幣使の創始とともに,1647年には永く中絶していた伊勢例幣使も再興され,また奉幣使が通る道として例幣使街道が開かれた。
執筆者:橋本 政宣
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朝廷より日光東照宮に毎年幣帛(へいはく)を奉納するために参向した勅使。3代将軍徳川家光(いえみつ)の要請により1646年(正保3)臨時奉幣使として参議持明院基定(じみょういんもとさだ)が発遣され、4月13日江戸を発して日光山に赴き、17日東照宮の祭儀に臨んで奉幣した。翌年からは毎年奉幣使(例幣使)が朝廷から発遣されて宣命(せんみょう)を読み、1867年(慶応3)まで至った。これを機に、1647年には中絶していた伊勢(いせ)神宮奉幣使も復活された。例幣使は毎年3月末ないし4月1日に京都をたち、15日までに日光に到着し、大祭前日の16日に神前に奉幣し、30日に帰洛(きらく)した。一行は50名前後で、往路は中山道(なかせんどう)・例幣使街道を下り、帰路は日光街道・江戸・東海道を経て帰洛した。
[大野瑞男]
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江戸時代,京都の朝廷から日光の東照宮に対して毎年派遣された奉幣使。奉幣使は朝廷から尊崇する神社などに幣帛(へいはく)を捧げて代拝するための使者。伊勢例幣使が有名だが,天皇の祖廟ではなく武家政権の権力者に対するものという意味で,日光例幣使は特異であった。朝廷から東照宮に徳川家康忌日の4月17日に遣使されたのは,1617年(元和3)がはじめだが,46年(正保3)持明院基定が臨時奉幣使として派遣され,翌年伊勢例幣使の再興に先立って,毎年4月の家康の忌日の奉幣勅使が定められた。参議の公卿が任命され,中山道経由で東下し,上野国倉賀野宿から例幣使道をへて東照宮に到達,家康忌日前日に幣帛を奉納し,宣命を読みあげた。
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…江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。江戸時代を通じて16度行われた将軍の社参は,4月17日(家康命日)の法要に集中しているが,莫大な費用と人手をともなうので,4代徳川家綱以降は8代吉宗,10代家治,12代家慶に各1回が記録されているにすぎない。…
※「日光例幣使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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