下長尾村(読み)しもながおむら

日本歴史地名大系 「下長尾村」の解説

下長尾村
しもながおむら

[現在地名]城南区長尾一―五丁目・樋井川ひいかわ二―三丁目、南区長住ながずみ三丁目、中央区小笹おざさ一―五丁目・平和へいわ五丁目・南公園みなみこうえん

北西へ流れる樋井川の中流域にあり、東は上長尾村那珂なか平尾ひらお(現中央区)・同郡高宮たかみや(現南区)、西は片江かたえ村。樋井郷一〇ヶ村の一。中世には上長尾村とともに長尾郷を構成した。正応四年(一二九一)八月二八日の関東下知状案(岡元文書/鎌倉遺文二三)に渋谷平五郎致重の遺領「筑前国下長尾田地」がみえる。年月日未詳の筑前下長尾田地相伝系図(同文書/鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ六)によれば、下長尾一〇町は致重が弘安の役で討死した功により与えられた恩賞地で、惣領定円(重基)、辰童女(法名明心)、弥陀童の三人に各三町ずつ配分され、残る一町は長尾の泰平たいへい(太平寺、現南区)に寄進されたという。しかし辰童と妹弥陀との間で亡父遺領をめぐって相論となり、正応三年一二月一一日には大宰府へ裁決を願出たものの、同四年八月二日に至り和与が成立した(前掲関東下知状案)。その後辰童分三町のうち一町は娘の虎光女へ、弥陀分三町は娘尼顕心へ伝えられた(前掲相伝系図)。なお薩摩入来いりき(現鹿児島県入来町)本拠とする渋谷氏(入来院氏)の祖である渋谷定心の年月日欠の所領注文(寺尾文書/鎌倉遺文一〇)には「筑前国早良郡内下長尾」がみえている。


下長尾村
しもながおむら

[現在地名]中川根町下長尾

上長尾村の南、大井川中流右岸にあり、柿間沢かきまざわ川・川根境かわねさかい川が大井川に注ぐ地にある。遠江国榛原郡のうち。西の久保尾辻くぼおつじ越で秋葉山(現春野町)に通じる道がある。永禄二年(一五五九)八月二一日の今川義元判物写(土佐国蠧簡集残篇)に「下長尾」とあり、尾張国大高おおたか(現愛知県名古屋市緑区)の在城を命ぜられた朝比奈筑前守輝勝が当地一円を宛行われている。正保郷帳に村名がみえ、田方永六貫二四八文・畑方永九八貫九〇八文、幕府領、ほかに昌林しようりん(現廃寺)領永一貫四〇〇文・万松ばんしよう(現廃寺)領永三貫文。元禄郷帳によると高五二九石余、幕府領、ほかに昌林庵・万松庵・神宗庵(現廃寺)八幡・天王(現日吉神社)・権現各所領(国立史料館本元禄郷帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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