下黒田村(読み)しもくろだむら

日本歴史地名大系 「下黒田村」の解説

下黒田村
しもくろだむら

[現在地名]京北町大字下黒田

黒田六ヵ村の一。蛇行する大堰おおい川上流沿いにある山間集落。西は井戸いど村、東は黒田宮くろだみや村。通称下村。

古代は「和名抄」に記す山国やまぐに郷に属し、中世は禁裏御料山国庄の枝郷黒田村に含まれる。黒田村が分離して六ヵ村となるのは正中年間(一三二四―二六)と伝えるが(元禄六年「宮野大明神記録帳」宮春日神社蔵)、確かではない。山国庄は南北朝期に均等名荘園となり、名田・名主・宮座とも大杣方と棚見方に二分されるが、下黒田村の初見は至徳元年(一三八四)の沙弥道山田地売券(井本昭家文書)で、次のようにある。

<資料は省略されています>

下黒田村の名主として、菅川禰宜・次川(菅河)左衛門太郎・和田中掃部・塩野中左近・塩野新屋左近・大江右近允・坂尻左近允・田口掃部助・鶴野兵庫允・東谷ノ丞仕中務允・上由利右近・下由利兵衛二郎など一〇余名が史料にみられる(井本昭家文書)。天文一九年(一五五〇)五月の郷中名主之事(吹上家文書)には、名主として井本左近尉友春・大東新藤吾重康・大江金兵衛成高・丹波屋兵衛尉百之の四家があげられている。名主には禁裏より口宣案が下賜されて、姓名・官職を与えられた。その古い例として井本家の祖先の采女永国・采女国光が、永正一四年(一五一七)三月二七日付で左近将監に任ぜられている(井本昭家文書)

黒田三ヵ村(上黒田・下黒田・黒田宮)には国貞・貞真・仰師・国里くにさと・吉野(うち一名は半名)の四名半の名田があり、一名田は二反ずつの小名田であったといわれる。下黒田村には大杣方の国里名一名があり、その内部構成は雑事(五反)・工方(五反三五代)・引田(一五代)・合(相)名分雑事(五反)・同工方(八反)よりなり、総計二町四反で名主が管理していた。その斗代(年貢)は、雑事反当たり四斗三升、工方同三斗五升であった(永禄八年一二月一三日付「国里名雑事工方目録」井本昭家文書)。このほかもろかね名・貞真名・国守名の一部が存在したが、いずれも分名で詳細はわからない。棚見方の田地は一三筆で七反二〇代あり、一三名の古くからの有力農民が所有していた。なお天文二年の下村中在家銭在所目録(同文書)によると、在家銭のかかる戸数は一五軒で、二貫九九三文を納付していたが、屋敷も野畠も平均一〇〇文が規準であった。

惣は名主層で管理・運営され、名主は惣山・名田・宮座の管理のほか、貢納の責務、山国庄惣中との連係など村落行政の一切を支配していた。各村は各々惣の印を持っていた。


下黒田村
しもくろだむら

[現在地名]上郷町下黒田

伊那往還(現県道飯島―飯田線)沿いに位置する。地名の初見は長禄四年(一四六〇)の諏訪御符礼之古書(諏訪大社上社文書)で、「一(加)頭 黒田 座光寺入道(貞近) 御符之礼一貫八百文 頭役拾貫」とあり、座光寺貞近が黒田の地頭として五月会加頭を勤仕していたことが知られる。それより古く、応永七年(一四〇〇)大塔合戦に、信濃国守護小笠原長秀に従った伊那衆の中に、飯沼六郎と並んで「黒田孫次郎」の名がある(大塔軍記)。また、永享一二年(一四四〇)の結城合戦にも小笠原政康の下に「飯沼殿」と並んで「黒田殿」の名がみえる(「結城陣番帳」笠系大成附録)


下黒田村
しもくろだむら

[現在地名]高岡市下黒田

千保せんぼ川右岸、京田きようでん村の南方に位置。かつて肥後天草あまくさの黒田某・秦某がこの地を開いて村立てし、黒田村・黒田開とよばれ、のち黒田村が下黒田村と改称したという。当地には宗祇そうぎ塚があり、飯尾宗祇の教えを受けた門人が塚を築いて師を慕ったといわれる(越の下草)正保郷帳の高四七九石余、田方二七町六反余・畑方四町三反余、新田高四九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五四二石・免四ツ四歩(三箇国高物成帳)。宝永三年(一七〇六)二二石余の新開が行われた(「高免等書上帳」折橋家文書)。灌漑は西八にしはつヶ用水を利用した(「郡事摘要」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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