日本歴史地名大系 「山国庄」の解説
山国庄
やまぐにのしよう
古代の山国郷が禁裏御料の荘園となったものである。山国郷は長岡京遷都の際、
荘名の初見は天元三年(九八〇)二月二日の某寺資財帳(金比羅宮文書)で「山国庄廿五町余加林十二町 小塩黒田三町 弓削一町」とあり、この頃、京都某寺領であったらしいが、応保二年(一一六二)九月二〇日付官宣旨案(壬生家文書)には「修理職杣山」とあり、平安末期には再び禁裏御料になったと思われる。
鎌倉時代には、禁裏の「御布、而於
丹波国大布施杣
、雖
採
置其材
、荘々人夫称
深雪
、無
其勤
之由、所
訴申
也、仍於
今者、権門荘々、慥可
遣
官使
之由仰
之、末代事、王化軽
自
鴻毛
、公事偏如
無
実、無
治術
之世也」とみえる。のち「看聞御記」によると、一時
山国庄は禁裏直務地で、公家が奉行・申次・代官などとよばれて、年貢公事の徴収や荘官の支配に当たった。南北朝期以降、庭田重之・万里小路忠房・烏丸資任・白川忠富王らがこの役に就任している。在地の荘官が史料上に現れる最も早い例として建久七年(一一九六)の御室氏女宗堂職補任状に番頭・公文・下司・定使という荘官職名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報