日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国科学」の意味・わかりやすい解説
中国科学
ちゅうごくかがく
四大文明の発祥地の一つに数えられる中国では、科学・技術も古くから発達し、西暦1500年ごろまでは西洋よりもむしろ進んでいたといえる。しかしその後、西洋では近代科学が生まれ、科学が急速な進歩を遂げたのに対し、中国では科学の進歩はあったものの、その速度は緩やかで、近代科学はついに生まれず、明(みん)末・清(しん)初の時期、イエズス会士たちが中国を訪れたときには、彼らのもたらした西洋の科学技術に比べ、中国は大きな遅れをとってしまっていた。
現代の科学は、西洋で16~18世紀ごろに成立した近代科学に源をもつものであるため、科学といえばとかく西洋に目がいきがちになるが、近代科学成立以前においては、中国に西洋より優れた科学・技術が存在し、しかもそれが自然への接し方、とらえ方、そのほか、さまざまな面で西洋とは違った特徴をもったものであることを知り、また、なぜ西洋に近代科学が生まれ、中国に生まれなかったかを理解することは、現代科学のあり方や進む方向を考えるうえだけでなく、文化や歴史を異にするいろいろの国や民族との間の交流が重要となっている今日、それらの国々との相互理解のうえでも、きわめて有意義と思われる。
また、かつての日本は中国の文化から圧倒的な影響を受け、現在の文化のなかにもその跡を多くみいだすことができる。したがって、日本の文化をより深く知るうえでも、中国の科学・技術の歴史について知る必要がある。
[宮島一彦]
自然学・物質観・科学思想
われわれを取り巻く自然界の事物現象を説明するために、それらを支配する基本原理として考えられたのは、陰陽二気と木火土金水の五行(ごぎょう)に基づく陰陽五行説であった。日本文化のなかにもこの説の痕跡(こんせき)を多くみいだすことができる。
陰陽二つの対立物や、それらが太極(たいきょく)から分かれたとして、二元論を一元論に還元することは、ギリシアの説とも類似するが、ギリシアに始まる西洋の対立概念が互いに相いれない厳しい対立であるのに対し、陰陽の場合は相補的・相対的である点が異なっている。ギリシアの四元素説は五行説と比較されるが、四元素が基本物質としての色合いが強いのに対し、五行の場合は性質や機能の面が重視された。そして中国では、ギリシアの原子論のような考えは生まれなかった。
中国では、人間も自然界の存在の一つとみなされたから、陰陽五行説は王朝の交代などの社会現象や人体の生理現象にも適用された。それに対し、西洋では、人間と自然との関係もまた、相対するものとしてとらえられ、西洋の科学技術の発達の歴史は、自然の征服の歴史でもあったが、自然破壊や環境汚染が進む今日、中国における人と自然との関係のとらえかたをもう一度見直す必要がある。
陰陽五行を説く陰陽家は、戦国時代に生まれた諸子百家の一つであるが、人間を自然界の存在の一部とみなす考えは、やはり諸子百家の一つの道家(どうか)において顕著である。ほかの儒家や法家などが考察・議論の対象を人間社会に限定したのに対し(宋(そう)代以後の儒学は自然学をも扱った)、道家はこの点で中国の自然科学にかかわりが深い。
道教は、仏教の伝来に刺激され、中国在来の民間信仰や神仙思想に、道家の思想の一部を加え、仏教の教えも取り込んで成立したとみなせるが、中国のインテリ・支配者層レベルでの文化が儒教文化であるのに対し、庶民レベルの文化は、仏教以上に、むしろ道教文化である。唐(とう)代の優秀な暦『大衍暦(たいえんれき)』を編纂(へんさん)したのは真言七祖の一人、一行(いちぎょう)であり、仏僧の貢献の例も多いが、中国の科学技術において道教が果たした役割も大きい。火薬の発明は、不老不死の神仙になるための丹薬(たんやく)製造(錬丹術(れんたんじゅつ))の過程で偶然になされたと推定されるし、錬丹術は化学物質の発見、化学反応の知識の増大、蒸留器などの実験器具の発達をもたらした。羅針盤(らしんばん)のもとになった磁石の指極性の知識は、道教の「奇跡」を表すための指南魚や指南亀(しなんき)(木製の魚や亀(かめ)の内部に方向磁石が仕込んであり、魚を水に浮かせたり、亀を棒で支えてやるとかならず南を向く)に使われていたし、道教の占いの一つの風水(地相占い)では、盤上で北斗になぞらえたスプーン状の磁石を回転させる司南盤が使われた。印刷術のおもな活用の対象として道教の紙銭・紙馬(いずれも死者があの世で使用する)・護符や道教・仏教の経典の印刷もあった。
これらの技術的な面だけでなく、「儒家哲学の思い及ぶ以上のものが、この世には存在する」という信念を人々に抱かせ、自然界の事物・現象に対する姿勢を柔軟にさせたことも指摘して、J・ニーダムは道家・道教の中国の科学技術への貢献を高く評価する。
諸子百家のなかでは、後述のように、もう一つ、墨家(ぼくか)が論理学・幾何学・光学や技術に強い関心を示した。
[宮島一彦]
天文学
古代の各民族で早くから体系化された科学の分野は、天文学・数学・医学であった。古代の天文学のおもな内容は暦算天文学・占星術・宇宙体系である。中国では、1912年(民国1)のグレゴリオ暦採用まで、ずっと太陰太陽暦とよばれる種類の暦が用いられてきた。これは暦日と季節のずれを補正するため、ときどき閏(うるう)月を入れて1年を13か月とするものである。殷(いん)代にはすでに太陰太陽暦が行われていたが、置閏(ちじゅん)法は十分確立していなかった。それが確立するのは春秋時代中葉である。それでも暦日と季節との関係は1か月程度の範囲内で変動するから、季節の指標として、春秋時代から、現代のわれわれにも親しみ深い啓蟄(けいちつ)・春分・立秋・大寒などの二十四気を導入した。これは季節の循環周期である1太陽年を24に分割して、その季節にふさわしい名称をつけたもので、太陽暦では毎年ほぼ一定の日付となるが、太陰太陽暦では一定しない。毎年、その年の二十四気の日付を計算して暦に記載した。
ところで中国では、殷または周代から「天」の思想があった。天とは、万物とそれの従う原理・法則の真の支配者であり、人間社会の真の支配者でもあるが、天は姿・形をもたないため、人間のうち選ばれた1人が天の支配を代行する。このように天から認められた人間社会の支配の代行者が皇帝で、したがって「天子」とよばれた。天子は「天壇(てんだん)」を築いて天を祭り、天に敬意を表した。天の偉大な徳は、天体の整然とした運行にも表れており、それによって季節は規則正しく循環し、動植物も順調に成育する。天子にとって日月惑星の運動を正確に把握し、それを表す正確な暦をつくって、人々に農作業の時期を示すこと(観象授時)によって、豊かで秩序ある社会を実現することこそ、天の意にかなう第一の善政と考えられた。またそのように詳細で正確な暦をつくれることは、天の高い徳をよく理解していることにもなるから、天子の権威にもつながった。前漢の武帝のとき全国的に施行された『太初(たいしょ)暦』は、前漢末に劉歆(りゅうきん)によって惑星の運行計算も付加されて『三統(さんとう)暦』となったが、この暦以来、中国の暦が単なるカレンダーではなく、日月食や惑星運行の予報まで含んだ「天体暦」であったのは、以上のような理由による。
暦法は農作業・社会生活・宗教行事などの便宜や日取りを提供するだけのものではなく、その王朝のシンボルでもあったから、王朝の交代の際には、新しい王朝は自らの支配権が天から認められた正統なものであることを示すために、改暦を行った。中国における暦にはこのような意味があったために、世界の他の地域に比べ、暦算天文学が著しく発達した。近隣諸国が中国の暦を使うことは、中国の威光に服したことになる。日本も、朝鮮半島諸国(とくに百済(くだら))や渤海(ぼっかい)国、および直接に中国からもたらされた暦(の計算法)を使用した。ただし、中国では前漢の『太初暦』から清の『時憲(じけん)暦』まで、多くの改暦が行われて50種近くの暦が使われたのに対し、日本では『大衍暦』『宣明(せんみょう)暦』など、そのうちのいくつかが使われただけで、江戸時代のなかばからは渋川春海(しぶかわはるみ)の『貞享暦(じょうきょうれき)』をはじめとするわが国独自の暦が使われた。しかし、その形式は中国の伝統形式に倣ったものであった。
天子には天の意に従ってよい政治を行う義務があったが、もし天の意に反して悪政を行うと、天は「天変」(異常な天文現象)「地異」(地震・火災・奇妙な生物の出現など地上の異常現象)を起こして警告を与えると考えられた(天人相関)。そこで天子は、天の意を知るために、国立天文台を建て、専門の天文役人を置き、つねに天文現象を監視させた(西洋で国立の天文台が建てられるのは近代に入ってからである)。ここから中国の占星術が始まり、のちには「天人対応」による占星術が加わった。
この説は、天の星の世界と地上の人間社会との間には対応関係があり、互いに感応しあうというもので、地上の地方区分・官僚組織や施設・建物などになぞらえて星座(星宿)が設けられた。中国の星座体系は、自然発生的な星宿や天体観測の位置の基準になる「二十八宿」などと、この天人対応に基づく星座とからなっており、現在使われているメソポタミア・ギリシア起源のものを含む西洋の星座体系とは、起源も具体的な星の配列もまったく異なっている。
このほか、中国では二十八宿を基準にした天の不等分割や、十二次とよばれる天の十二等分割を諸州(あるいは春秋戦国時代の諸国)に対応させて各地方について占う、分野説というものもあった。1979年に発掘された曽侯乙(そこういつ)の墓から二十八宿名の記された漆箱がみつかり、二十八宿体系が春秋時代に成立していたことが証明された。
現代のわれわれにとっては占星術は迷信にすぎないが、そこで主張される天文現象と地上のできごととの間の因果関係が否定されるまでは、その法則の追究はれっきとした科学的活動であった。昔の中国の人たちはそれを追究して膨大な観測記録を残した。とくに古代・中世については、西洋の記録は中国よりはるかに乏しく、中国の記録は現代天文学にも大きく貢献している。たとえば、太陽黒点については、ガリレオ・ガリレイらの発見よりはるか以前に中国で認識されていた。
これら中国の占星術は、国家やある地域の住民全体とか、個人でも皇帝・大臣・将軍など公共性の強い人物の運命を占う公的占星術であった。これに対して、メソポタミアで生まれて西洋で発達したホロスコープ占星術は、誕生時の天体の位置によってその人の一生を占う個人占星術かつ宿命占星術であった(のちには、そのつど運命を占うようにもなった)。密教占星術はインド在来のホロスコープ占星術に、この西洋のホロスコープ占星術の要素が入り込んだもので、隋(ずい)・唐のころ中国に伝わった。『宿曜経(すくようきょう)』はこの密教占星術を、インド生まれで中国に帰化した僧・不空が弟子に口述筆記させたものであり、中国古来の占星術より遅れて、平安時代の日本にも伝わった。「私の星座は――座」という場合のメソポタミア起源の「黄道十二宮」もこのとき日本に入ってきた。
『晋書(しんじょ)』天文志によれば、古代中国で考えられた宇宙体系は六つあり、そのうち主要なものは「蓋天(がいてん)説」「渾天(こんてん)説」「宣夜(せんや)説」であり、他の三つのうち安天論は宣夜説をヒントにしたもの、穹天(きゅうてん)論は天地が中央で盛り上がっているというもの、昕天(きんてん)論は宇宙を人体になぞらえたものである。
宣夜説は、天は実体のない空虚な空間で、星はその空間になんの支えもなく浮かんで、自由に運動できるという、モダンな考え方であったが、数学・物理学的裏づけがなく、まもなく廃れてしまった。したがって、とくに重要なのは他の二つで、両説をそれぞれに支持する学者の間で、前漢・後漢のころ活発な議論が繰り広げられた。
天球を想定する渾天説のほうが、天は蓋(かさ)のように大地の上にかぶさっているとする蓋天説より合理的で、結局勝利を収めたが、しかし、渾天説の優位が定まると、それ以後は著しい発展をみなかった。この点、ギリシア以来、着々と発展してきて、ついに地動説を生んだ西洋の宇宙観の歴史と対照的である。
中国では、秦(しん)・漢以後、官僚制度が強く支配し、科学研究や技術開発がおもに政府のもとで官僚たちによって行われ、有能な学者の多くは官僚またはその経験者であった。そして、彼らの思想的基盤は儒教であった。そのため、政治がすべてに優先し、実用が重んじられて本質の追究がおろそかになったことが、中国で暦算天文学や占星術が発達する一方で、宇宙体系の追究が進展しなかった理由とも考えられる。
また天体の運行の計算に幾何学モデルを必要としなかったこともあげられる。まったく不要なわけではないが、渾天説でもその程度の用なら足せたのである。ギリシアでは代数学より幾何学が発達し、天体の運行の計算にもつねに幾何学モデルが付随し、むしろそれがないと始まらないようなところがあった。そのため、実際とはかけ離れた複雑な宇宙体系まで考え出された。
渾天説に基づく天文儀器である渾儀(こんぎ)(環(かん)を組み合わせて天球を表し、観測や考察に用いる。渾天儀ともいう)・渾象(こんしょう)(天球儀)は前漢の時代からつくられるようになったが、後漢の張衡(ちょうこう)以来、天球の日周回転にあわせて水力で自動回転させるのが伝統となった。その最高峰が北宋(ほくそう)末に蘇頌(そしょう)(1020―1101)と韓公廉(かんこうれん)(11世紀ごろ)によって建設された水運儀象台である。これには回転を制御するための脱進装置が備わっていた。西洋の機械時計の脱進装置とはまったく異なるもので、かつ、それより約300年先んじるものであった。1092年に蘇頌が書いた『新儀象法要』は水運儀象台の図入り仕様説明書として注目される。
しかし明末以降、アダム・シャールらによってもたらされた西洋天文学はすでに中国のそれをはるかに凌駕(りょうが)していた。明末、徐光啓(じょこうけい)やアダム・シャールは西洋天文学の百科全書とでもいうべき『崇禎暦書(すうていれきしょ)』を編纂したが、これによる改暦は実現されないまま、明は滅亡した。しかし、清王朝はこれを再編して、時憲暦として施行した。これは中国で最初に施行された、西洋天文学に基づく暦であり(形式は太陰太陽暦)、ティコ・ブラーエの太陽系モデルに従ったものであった。
[宮島一彦]
数学
中国の数学は、計算術や代数学の方面がよく発達し、図形を扱うにしてもその計量的側面を扱い、性質を論じるユークリッド幾何学のようなものは生まれなかった。しかし、その兆しがまったくなかったわけではない。戦国時代の諸子百家の一つ、墨家の思想を記した『墨子』の巻40~43「経」「経説」のなかには幾何学用語の定義がみられる。ここにはそのほかに反射鏡による結像など光学記事やアルキメデスのてこの原理や天秤(てんびん)のつり合いに関する定理に相当するものなどの力学記事、そのほか技術的な内容などもみられて興味深い。これらの光学的内容の多くは同時代のギリシアより進んでいた。しかしこのような『墨子』にみられる論証性と幾何学の萌芽(ほうが)も、秦の始皇帝による思想弾圧や、漢の武帝のときの儒教の支配の確立に伴う墨家の衰退とともに失われた。
唐代の天文学者・数学者である李淳風(りじゅんぷう)(602―670)が選定し校訂した「十部算経」とよばれる10種の数学書は、当時のインテリ層の子弟の必須(ひっす)の教科書であった。このうち祖沖之(そちゅうし)の『綴術(てつじゅつ)』は内容が高度すぎて絶えてしまい、宋代の「算経十書」ではかわりに甄鸞(けんらん/しんらん)(6世紀中ごろ)の『数術記遺(すうじゅつきい)』が加えられた。
その第一の『周髀算経(しゅうひさんけい)』は、後漢の末ごろ、現在みられる形にできあがったと思われるが、「算経」とあっても内容的には蓋天説に基づく天文学書である。ただそのなかで、ピタゴラスの定理や直角三角形の相似を使った計算が扱われている。これらは勾股(こうこ)術とか勾股の法とよばれ、測量術になくてはならないもので、中国数学において重要なジャンルの一つであった。後述の『九章算術』の第9章は「勾股」の章である。
中国の数学書の伝統的様式を備えた最古のものは「十部算経」の2番目の『九章算術』であるが、近年、それよりも古い『算数書』が古墳から発見された。書名が「算数」であって「算術」でなく(すなわち実用技術でなく学問と考えている)、『九章算術』と酷似する問題も多くみられるが(後述のように中国の数学書は問題集形式である)、『九章算術』と違い小項目形式になっている。『九章算術』は9章に分けられ、多角形や円・半円の面積計算や、平方根・立方根の計算、二~三元連立一次方程式・一元二次方程式なども扱われている。負数を正数と同等に扱う点などは同時代の西洋の数学よりも進んでいる。第2章「方田」で、四角形の田だけでなく、現実的でない円・半円や環状の田の面積を扱っているのは、この書がけっして実用だけのものでないことを示している。
方程式は、未知数記号こそまだ使われていないが、係数を算木(さんぎ)で表し、これをちょうど方程式を加減法で解くように変形していって解を求める方法が述べられている。係数だけを操作して方程式を解くのは、現代の行列式に通じるものがある。未知数記号が導入されるのは元(げん)の時代からで、李冶(りや)(1192―1279)の『測円海鏡』には、われわれが「未知数をxとする」と表現するものを「天元の一を立てる」と表現し、未知数記号として「元」という漢字を用いている。また、元代の朱世傑(しゅせいけつ)の『四元玉鑑(しげんぎょくかん)』では天・地・人・物を未知数とする四元連立方程式を解いている。『九章算術』はディオファントス以前の世界最高の代数書と評する人もあるが、三国の魏(ぎ)の数学者の劉徽(りゅうき)のつけた注も優れている。中国の数学書は、古代エジプトやメソポタミアのものと同様、問題・答・計算法が並べられているだけで計算法の由来は示さず、そのため中国の数学は論証性に乏しいともされるが、劉徽の注には証明に類するものもみられる。この劉徽をはじめ多くの数学者が円周率の値を求めているが、とくに南北朝時代の祖沖之の求めた値は非常に詳しく、3.1415926と3.1415927の間にあるとした。
中国の数学で優れていたものとしては、このほか、不定方程式の解法や補間法があり、いずれも暦算天文学の必要性から発達したものであった。補間法は隋の劉焯(りゅうしゃく)の『皇極(こうぎょく)暦』に始まるが、一行の『大衍暦』で用いられている補間法は、ガウスの補間公式の第3項までと完全に一致する。このほか、級数計算なども中国数学の得意とするところであった。
明末から清の時代になると、ユークリッドの『ストイケイア』(『幾何学原本』)などの漢訳がイエズス会士らの手で行われ、西洋数学が紹介された。
なお、中国では、この宇宙にさまざまな数量的関係をみいだそうとする意図が多くみられ、暦の定数と音階や易の数が結び付けられたりした。中国の正史中に「律暦志(りつれきし)」と題して暦法と音階理論がしばしば抱き合わせで収録されているのはそのためである。この傾向はギリシアのピタゴラス学派の数学を連想させる。このようなことは、ともすれば数の神秘主義(数秘術)に陥ってしまうが、宇宙に数学的法則をみいだすことは現代科学の目的でもある。
朱世傑の『算学啓蒙(けいもう)』や明代の程大位(ていだいい)の『算法統宗(さんぽうとうそう)』などの中国の数学書は、日本の数学にも大きな影響を与え、前者は点竄術(てんざんじゅつ)を、後者は吉田光由(みつよし)の『塵劫記(じんごうき/じんこうき)』を生んだ。「和算」は中国数学を基盤にして成立したといえる。
[宮島一彦]
医学・本草学
司馬遷の『史記』には、扁鵲(へんじゃく)(本名、秦越人(しんえつじん))と倉公(そうこう)(本名、淳于意(じゅんうい))という2人の医者の伝記があり、それによって古代の中国の医学をうかがい知ることができる。
扁鵲は合理的医学を確立した人として、ギリシアのヒポクラテスと並び称されるが、伝記の内容は、戦国時代のさまざまな時期にさまざまな土地で活躍した複数の医者のエピソードをつなぎ合わせたものと思われる。扁鵲の治療法では鍼(はり)が重視されており、灸(きゅう)が出てこないが、漢の文帝の時代の倉公は鍼と灸を同じぐらい使っている。扁鵲が活躍したのは戦国時代となっているが、医学的内容は、おそらく司馬遷や漢の武帝、すなわち文帝や倉公より後の時代の医学を反映したもので、倉公の時代はおもな治療法が、灸から鍼へと移る過渡期ではないかと思われる。
鍼や灸は、経脈・絡脈(あわせて経絡)などの主要ポイントである気穴(日本でいう「つぼ」)に打ったり、すえたりするが、人間の体内には気と血がこの経絡に沿って流れており、それが人間の生命現象を維持すると考えられた。経脈はそのような筋道の主要なもの、いわば幹線で、『黄帝内経(こうていだいけい)』などでは12本とされ、元代には任(じん)脈・督脈を加えて14経脈となった。絡脈はそこから分岐した支線である。宋代には、経脈と気穴の位置を示す「銅人」(銅製の人体模型)もつくられた。
気としては、初め陰陽の気が、のちには五行の気も考えられた。気が調和を失うと病気になるという考えは、ギリシアの四体液説で、体内を流れている四体液のアンバランスが病気の原因と考えられたのと似ている。これらはいわば病気内因説であるが、『黄帝内経』では、ほかに、邪の気が外部から侵入して、経絡に沿って次々に病気を引き起こすという、いわば外因説も示されている。邪の気は現代流にいえば、さしずめ細菌やウイルスである。『黄帝内経』は、『漢書』芸文志にその名をみいだすことができるが、現存する『黄帝内経』には『黄帝内経太素』『(同)素問』『(同)霊枢』などがあり、『素問』はおもに医学理論、『霊枢』は鍼治療について書かれていて、内容は互いに重複せず、『太素』は両書の内容をあわせもっているが、論理性、体系性に不完全さがみられる。おそらくこれらは漢代に書かれた『黄帝内経』をもとにして生まれたもので、後代(とくに隋・唐のころ)の手が大幅に加わっていると思われる。したがって、とくに内容が整っている『素問』などは、隋・唐の医学を反映しており、むしろ不完全さの残る『太素』のほうが漢代の原形をよくとどめているのではないかと思われる。実際、『素問』の理論的基盤は五行説であるのに対し、『太素』では五行説はまだはっきり姿を現しておらず、陰陽説主体である。
この『太素』の完本は中国ではすでに失われており、日本の京都の仁和寺(にんなじ)にのみ、完本に近いテキストが現存する。仁和寺には、丹波康頼(たんばのやすより)の『医心方(いしんほう)』も現存し、ともに国宝となっている。『医心方』は中国の多くの医学書からの引用に康頼自身の見解を加えて編集されたもので、医学の面でもまた、日本は中国に負うところが大きかった。『太素』などには、人体の内臓(五臓六腑(ごぞうろっぷ))の色や大きさ、骨格各部の名称や長さも示されており、解剖学的知識も十分認められるが、ただし、内臓の機能や役割についての理解はいまひとつで、精神活動の中枢を心臓と考えたりしている。
なお、南宋代に書かれた『洗冤集録(せんえんしゅうろく)』は西洋に先だつこと300余年の法医学書で、解剖学の記述も豊富である。1975年、湖北省雲夢(うんぼう)で発掘された秦代の竹簡(ちっかん)に、研究者によって「封診式」と名づけられた検屍(けんし)に関する文書があった。
現代の漢方医学でも『黄帝内経素問』と並ぶ宝典とされているものに『傷寒論』がある。これは実地的な臨床医学書であり、脈診がおもな診察法で、細かく分類されている。
後漢末の華陀(かだ)は麻沸散(まふつさん)という一種の麻酔薬を使って手術を行ったと伝えられる。記録が正しければ、手術に麻酔薬を使った最古の記録であり、日本の華岡青洲(はなおかせいしゅう)やヨーロッパ・アメリカの例が1800年代であるのに比べ、はるかに古い。華陀はまた、5種の動物になぞらえて導引(どういん)のポーズ5種をつくり、五禽戯(ごきんぎ)とよんだ。
導引は健康体操ないしは呼吸法で、これによって宇宙の気を身体の隅々まで行き渡らせ、健康の維持増進を図る。今日の太極拳(たいきょくけん)もその一種である。中国の医学では、病気の治療より予防医学が重視される。1960年代後半から1980年代にかけて、中国では目覚ましい考古学的発見が相次いだが、長沙(ちょうさ)郊外の馬王堆(まおうたい)漢墓の発掘もその一つである。『五星占』『天文気象雑占』などの天文書や『地形図』『駐軍図』などの地図のほか、『五十二病方』『足臂(そくひ)十一脈灸経』『陰陽十一脈灸経』などの医学書も発見された(書名はいずれも現代の中国の学者がかりにつけたもの)が、導引のポーズを描いたと思われる『導引図』は珍しい。また軑公(たいこう)夫人の死体は肌に弾力のある状態で発掘され、遺体の保存技術の高さに驚かされた。甘粛(かんしゅく)省武威からは『武威漢代医簡』が発見されている。
経絡と鍼治療に対する現代の理論的および解剖学的説明については未解決の部分が多いが、一種の物理療法として現代でも大きな効果をあげていることはよく知られるところである。経脈によって内臓や器官が互いに関連しているという考え方は、人体を局部的にみるだけでなく、全体的・総合的にもみることの必要性という点から、現代医学が学ばなくてはならない点であろう。
隋の巣元方(そうげんほう)らは勅命を受け、先人の経験を総括して『諸病源候論(しょびょうげんこうろん)』を編纂した。このなかでは皮膚病や寄生虫病に関する妥当な解釈がみられる。
唐の名医・孫思邈(そんしばく)は自己の臨床経験をもとに、『千金要方(せんきんようほう)』『千金翼方』(あわせて『千金方』)を著し、診断・治療・予防・衛生や薬の処方について述べた。また医者の倫理について強調している。
宋・金・元の時代になると中国医学はさらに細かく分科し、いっそうの発展を遂げた。
内容を知ることができる最古の体系的な医薬書は、南北朝時代の陶弘景(とうこうけい)が編集をした『神農本草経集注(しんのうほんぞうきょうしっちゅう)』である。神農とは太古に中国を支配したとされる伝説上の王であるが、民に薬を教えたとされ、薬の神として崇(あが)められている。本草は薬草の意味であるが、この本には、動物性・鉱物性の薬も含めて、基にした『神農本草経』『名医別録』両書から、それぞれ1年の日数にあたる365種の薬物を、上・中・下薬に分類して収録している。上薬は不老不死を得る仙薬とされるもの、中薬は健康を維持増進する保健薬、下薬は病気の治療薬である。なお、鉱物性の薬は古代エジプト・メソポタミア・ギリシアでは使用されたが、中世ヨーロッパでは用いられることがなく、近世になってパラケルススが初めて水銀を梅毒の治療に用いた。
中国の薬物の知識は、最初の国撰本草書である唐代の『新修本草』、北宋代の蘇頌が勅命により編纂した『図経(ずけい)本草』や唐慎微(とうしんび)の『証類本草』としだいに増大し、明代に李時珍(りじちん)の『本草綱目』が出て最高の域に達した。
日本では中国の本草学に独自の知識を加えて和漢薬として使っている。
[宮島一彦]
技術・化学
不老不死を得る薬は、初め自然界にそのままの形で求められ、仙薬とよばれた。しかし、薬品を濃縮したり、数種類を組み合わせて相乗作用を働かせたりして、人為的な処理を施して効き目を強めた丹薬がしだいに追究されるようになった。主成分として丹砂(たんしゃ)(硫化水銀)が多く使われるようになったところからこの名がある。
硫黄(いおう)と水銀は化学変化が顕著であり、普通の人から神仙への顕著な変化に通ずると考えられたからである。これとは逆に、金はその不変性・永遠性ゆえに不老不死に通ずると考えられ、やはり主成分として使用された。
錬丹術は、中世の西洋・イスラムで盛んに行われた錬金術と比較されるが、錬丹術でも、天然の金より人工の純度の高い金のほうが効き目が強いと考えられて、金をつくりだす努力がなされたし、ときには金をつくること自体が目的とされることもあった。錬丹術・錬金術は互いに似たところがあるといえる。そして、いずれも究極の目的は達せられなかったが、新しい物質の発見、化学反応の知識の増大、実験器具の進歩に貢献した。前述のように錬丹術における新物質発見の代表例は火薬であった。
唐代の医者孫思邈には、前述の『千金要方』『千金翼方』という医学書のほかに『丹経』という丹薬に関する著書がある。このなかの「伏火硫黄法」は黒色火薬と同じ原料が使われており、手順を誤ると爆発してしまう。これが火薬の発明につながったと推定される。実際、火薬は唐代末には使われるようになる。最近では、南北朝時代の葛洪(かっこう)の錬丹術書『抱朴子(ほうぼくし)』に記載があるヒ素を用いた丹薬の製法も、記述どおりに処方すると爆発し、手順を変えると記されたとおりの銀色の結晶性の合金を生じる、という研究報告が出されている。とにかく、中国で発明された火薬がイスラム圏を通じてヨーロッパに伝わり、ヨーロッパ社会を大きく変えた。
磁石が鉄を引き付けることは、古代ギリシアでも中国でも知られていたが、その指極性の指摘は中国のほうが西方よりはるかに早い。後漢の王充(おうじゅう)が書いた『論衡(ろんこう)』には、道教の貢献のところで触れた「司南」の記述がある。『韓非子(かんぴし)』中の司南も同じとすれば、戦国時代にまでさかのぼることができる。宋代ごろからは方向磁石が航海に使われるようになり、イスラム圏を通じてヨーロッパに伝わると、精巧な羅針盤がつくられて大航海時代を支える大きな力の一つとなった。
紙も中国の発明である。エジプトのパピルスはペーパーの語源であるが、これは、パピルスという植物の茎の細片を縦・横一層ずつ並べて重ね、圧搾機で水分を絞って乾燥させたものであり、植物繊維を水に溶かしてほぐし、絡み合わせた薄層の紙とは異なる。紙の発明者と伝えられる蔡倫(さいりん)より古い前漢の紙が中国で発見されている。唐の軍がタラス川でアラビア軍に大敗したとき、捕虜になった中国人兵士のなかに紙漉(かみす)き工がおり、彼によって製紙術が西方に伝わったといわれる。
印章は古くからあったし、石碑の拓本をとることも南北朝の梁(りょう)代にすでに行われていたが、木版刷りを印刷の始めと考えると、印刷術は7世紀ごろに中国で始まった。現存する最古の印刷物は奈良の法隆寺に残る経文とされてきた。770年に木版および銅版によって印刷されたものと思われるが、最近では、韓国に残る経文に751年印刷のものがあって法隆寺のそれよりも古いと、韓国の学者は主張している。
中国の漢字の種類は多いため、活字を用意するメリットは少ないが、11世紀には畢昇(ひっしょう)が陶活字をつくったことが、沈括(ちんかつ/しんかつ)の『夢渓筆談(むけいひつだん)』に記されている。
この本は、太陽暦の提唱・方向磁石の偏角や地殻変動(山上に海の生物の化石があることから)の指摘など、優れた科学記事が豊富な随筆集である。
陶活字は摩耗しやすく、実用的ではなかったが、やがて木活字もつくられた。金属活字は朝鮮で初めてつくられた。印刷されるものは、仏教・道教の教典や暦が多かったが、マルコ・ポーロは元朝で紙幣が使われていたことに注目しており、紙幣によって印刷術がヨーロッパに伝わったと考えられる。紙と印刷術は知識の大衆化と普及に大きく役だった。
これらの四大発明以外にも、寺院・宮殿・墳墓などの土木建築技術から、『天工開物』に記されているような産業技術に至るまで、中国の技術には優れたものが多く、日本の技術はほとんど中国から学び、それに自らのいくらかの改良を加えたものであった。
[宮島一彦]
音階理論
前述の曽侯乙(曽は春秋時代の国名、乙は君主の名)の墓(前5世紀末)からは、大小64個の鐘をセットにした「編鐘(へんしょう)」という打楽器も発見されている。これらの遺物からも、古くから音階理論が発達していたことや音楽が重視されたことがうかがえる。儒教では礼と楽(音楽)をもっとも尊んだので、儒教が勢力をもつに伴ってさらに発達した。その内容は『礼記(らいき)』月令(がつりょう)篇・『淮南子(えなんじ)』や歴代正史の「律暦志」などにみることができる。漢の京房(けいぼう)は楽器の弦または管の長さを、次々に、3分の2または3分の4にする「三分損益(さんぶんそんえき)法」による音階をつくったが、これによってピタゴラス音階と基本的に同じものをつくりだすことができる。管の場合は管口端補正を加えないと正しい音階にならないが、京房はその事実にも気づいていた。しかし、中国の標準楽器は十二律管(じゅうにりつかん)とよばれる笛である。これは1オクターブを半音ずつにくぎったもので、もっとも音の低い(長い)ものを黄鐘(こうしょう)といい、1オクターブ上のものもあわせた13本のセットで残っている例も多い。黄鐘の長さや空洞の容積・その空洞に黍(きび)を詰めたときの重さなどが度量衡の単位の基礎となった。また、陰陽五行説を背景に、音階は暦法とも結び付いたために、それらが正史の律暦志に記録されたことは前述したとおりである。
[宮島一彦]
測地と地図
蓋天説を述べた『周髀算経』などには「一寸千里の法」が説かれている。高さ8尺の周髀(ノーモン)の、夏至の日の南中の太陽による影の長さが、地上を南北に1000里移動するごとに1寸変化するというのである。(第一次)蓋天説では天地は平行平面と考えるので、この関係から、天地の隔たりや、観測地から夏至の日の南中の太陽の直下点までの距離を計算したりしている。南北の移動距離と影の長さの間の関係がこんなに単純でないことはもちろんであるが、古代に都の置かれた長安(ちょうあん)や洛陽(らくよう)など、北緯34~35度付近に限っても正しい値とはいえない。しかし、唐代に一行が大衍暦を編纂した際、南宮説(なんぐうえつ)を派遣して測量させた結果は、河南(かなん)地方の夏至のころの値としてはほぼ正しい。大衍暦には影の長さと太陽高度との関係表があり、これは三角関数のtan(タンジェント)の表とみなすことができる。一方、天の北極や太陽の高度そのものの変化と南北移動距離との関係は一定、つまり正比例するが、南宮説は天の北極の高度変化と南北移動量との関係を求め、各地の北極出地(天の北極の高度)すなわち緯度に相当するものを求めている。ただ、中国の場合、大地が球形であるとの観念がなかった。各地の北極出地の測定は、その後も郭守敬(かくしゅけい)らの授時(じゅじ)暦編纂の際などに、さらに大々的に行われている。
秦滅亡のとき、漢の宰相蕭何(しょうか)が接収した図書のなかに地図があったと伝えられるが、中国の現存最古の地図は、1973年末に馬王堆3号墓(前漢初期)からみつかり「地形図」「駐軍図」「城邑(じょうゆう)図」と名づけられた3幅である。とくに「地形図」には当時の長沙国の南部地域が18万分の1の縮尺でほぼゆがみなく描かれていた。中国の科学的地図学の父とされるのは裴秀(はいしゅう)(224―271)で、中国全土をカバーする地図18枚を、100里を1寸に縮め、1寸間隔の縦横の線を引いて描いた。経緯度線を縦横の直線で表した地図は、古代ヘレニズム時代のエラトステネス(夏至の南中の太陽高度の緯度による違いと、2地点間の距離から地球の大きさを求めた人物)であるが、経緯度線は特定の都市を通る不等間隔のものであった。等間隔の縦横線(方格)を引いた地図は裴秀のものが最初である。唐の賈耽(かたん)は100里を1寸に縮めた縦3丈3尺、横3丈の『海内華夷図(かいだいかいず)』を801年に製作したが、裴秀のものも賈耽のものも残っていない。ただ、賈耽のものに基づいたと思われる「禹跡(うせき)図」という石刻方格地図が西安碑林に残っている。方格の間隔はやはり1寸で、100里を表しており、縦73、横70本の線が引かれている。賈耽の図の中国以外の部分が省略されたと思われるが、輪郭は現在の地図とほとんど変わりがなく、中国の地図学が早くから高度に発達していたことがわかる。
[宮島一彦]
航海術・造船
宋代は科学技術が著しく発達した時代であるが、造船技術もこの時代に全盛期を迎えた。1974年に福建(ふっけん)省泉州(せんしゅう)湾で南宋時代の海船が発見された。復原された大きさは、長さ34.55メートル、幅9.9メートル、排水量374.4トンで、構造は宋代の文献の記述とよく一致している。宋元時代の遠洋大型海船は、船底と両舷(げん)に2層ないし3層の木板が用いられ、各船室が浸水を防ぐ隔壁によって厳重に仕切られていて、一つの部屋の浸水が他の部屋に及ばないようになっており、容易に沈まないようくふうされていた。
明代には「鄭和の大航海(ていわのだいこうかい)」が行われた。成祖永楽帝(えいらくてい)の命によって始まり、宣徳帝(せんとくてい)の代まで7回にわたるもので、一部の船団はアラビア半島からアフリカ東海岸まで達したし、第七次にはメッカまで行っている。第一次の遠征では2万7800人余を62隻に乗せたといい、鄭和伝によれば船は長さ150メートル、幅は62メートルという巨大なものであった。これらの船は宝船(ほうせん)ともよばれ、南京の宝船廠(しょう)でつくられたというが、1957年にその跡地とされるところから巨大な舵(かじ)の一部が発見されて、記録が裏づけられた。
明代に書かれた兵書『武備志(ぶびし)』に、鄭和航海図と伝えられるいくつかの図があり、宝船図も含まれる。これらの航海図によれば、長江(ちょうこう)河口からスマトラ北端までは、指南針(方向磁石)を用いつつ沿岸航法を、ここからペルシア湾のホルムズまでは遠洋航法を行っている。遠洋航法の際には磁石も用いられたが、北極星の観測から求めた天の北極の高度すなわち緯度が利用された(北極星が真の天の北極に位置しないことは以前から知られていた)。これには、あらかじめいくつかの特定の地点の緯度にあわせてつくられた四角い板の、中央の穴から張った紐(ひも)のはしに目を当て、穴から北極星が見えるように板をかざし、板の下端が水平線に一致するようにする。
ここで用いられている角度の単位はアラビアのものと一致し、道具もアラビアでカマールとよばれる観測器とほぼ同じであることから、この方法と道具がアラビアから伝わったものであることは間違いない。なお、鄭和はイスラム系色目(しきもく)人の宦官(かんがん)であった。
一方、方向磁石の使用は中国が西方よりはるかに先んじることはすでに述べたが、宋代の軍事技術書『武経総要』には前述の指南魚の製法があり、加熱による鉄の磁化が述べられている。また、『夢渓筆談』には天然磁石で鉄針を擦って磁化する方法が紹介され、そうやってつくられた指南針を糸で釣り下げたり、コルクのようなものに刺して水に浮かべたりすることが述べられている。この宋代においてまもなく航海に使用されるようになった。とくに、悪天候で星が見えないときには指南針が頼りであった。
鄭和の大航海はバスコ・ダ・ガマの航海に匹敵するもので、しかも、それに100年近く先んじるものであった。
[宮島一彦]
中国の科学技術が西洋に遅れた理由
以上にみてきたように、中世まで西洋より進んでいた中国の科学・技術が、近代に入って西洋に遅れをとり、ついに近代科学が生まれなかった理由はどこにあるのであろうか。
この問題に簡単に答えを与えることはできないが、まず中国の置かれた地理的環境があげられる。北・北西は砂漠、西・南西は山岳、南・東は海に囲まれて、外敵の侵入が少なく、文化の順調な蓄積、発展がある反面、外来の要素も伝来しにくく、それらに刺激された画期的な飛躍も期待しがたい。
中国の広さと民族の多様さは、数字的にみてもヨーロッパに匹敵するが、ヨーロッパの諸民族がそれぞれ独自の文化をもち、ほぼ対等な関係にあって互いに刺激しあって発展したのに対し、中国では漢民族が次々と周辺の民族を同化していき、残った周辺異民族(現在ではいずれも中華人民共和国の少数民族)に比べて、漢民族の占める割合は圧倒的となった。文化レベルも他より格段に高く、それに比肩しうるものがなかった。遼(りょう)、金や清の王朝のように、少数異民族が漢民族を支配した場合でも、彼らは漢文化を積極的に吸収し、それに同化しようとした。元王朝を建てたモンゴル族は、自身を中国文化に同化させることはせず、また中国文化に新しい要素や性質を注ぎ込んだが、中国文化の伝統を本質的に変えることはなかった。その結果、ほとんど単一の漢文化が中国全土を覆うことになった。
そのような状況のなかで、中国人はあらゆる問題を自分たちの内部で解決し、物質的・経済的にも、文化的・科学的にも、いわば自給自足する伝統をつくりあげた。また、自分たちがもっとも優れているという中華思想が育ったのも無理はなかった。このため、まれに外来要素が入ってきても、中国の科学や文化のパターンを大きく変えるには至らなかった。
一行が『大衍暦』を編纂したころ、祖父の代に中国に帰化したインド人天文学者の瞿曇悉達(くどんしった)は、インドの天文学を漢訳した『九執(きゅうしつ)暦』を書いたが、『大衍暦』をはじめとする同時代およびそれ以後の中国の暦には、少なくとも表面上は、その影響はほとんど認められない。元の郭守敬らが編纂した『授時暦』は中国暦算天文学の到達した最高峰であった。当時、中国に伝わっていた優秀なイスラム天文学の影響は、郭守敬がつくった観測器に影響を与えたが、暦の伝統的形式は変わらなかった。元・明時代には在来の天文台のほかにイスラム系の天文台が設置されたが、両者の間に学問上の交流はなかった。
第二は、前述した官僚制度の強固な支配である。王朝が変わっても技術官僚はたいせつに保護され召し抱えられたし、文書なども保存され受け継がれた。
科学技術の研究・開発が政府の手で行われたことは、それらの連続的で順調な発達に貢献しているが、反面、研究対象が限定され、本質より実用が重視される。このことも科学の飛躍的発展を阻んだであろう。
第三は、中国人の「自然法則」に対する考え方である。ギリシア人やその文化を受け継いだヨーロッパでは、一般的・普遍的なものに関心が向けられ、自然現象を支配する不変の一般原理や法則の存在が固く信じられた。一般法則と考えられたものにあわない現象がみつかれば、それをも説明しうる、より一般的な法則の追究がなされた。
中国では個別的なもの、変化するものに関心が向けられた。一般法則の追究もなされたが、自然現象には法則に従うものだけでなく、従わないものもある、ということこそ真理であると考えられた。このため一般法則の追究が不徹底に終わった。
自然界にかならずそれの従う一般法則があると、最初から決まっているわけではない。したがってどちらの選択もありえたわけであるが、結果としては、いままでのところ、西洋の選んだ道が成功を収めた形になっている。
日本では、法則はよそでみつけてくれるものであった。自分たちはそれを学び、自分のものにして使いこなすだけでよかった。初めは中国から学び、西洋のほうが優れていると判断すると、すばやくそちらに鞍(くら)替えした。一昔前までしばしば指摘された日本の科学・技術の独創性の乏しさの原因はそのあたりにあるとも考えられる。
なお、ここで取り上げた「中国の科学」の「中国」は、現代中国の国家や国土とはかならずしも一致しない。現代中国のいわゆる少数民族にも独自の文化があったことはいうまでもない。
現代中国では積極的にヨーロッパ、アメリカや日本の科学技術を吸収して向上を図っている。物資や人的資源の豊かさからみても、過去の歴史における科学技術のすばらしさからみても、近い将来、世界の第一線に躍り出ることは不可能ではない。
[宮島一彦]
中国科学の典籍
本文中でも引用したように中国の科学技術を記録する書物は多い。中国科学技術出版社が発行している季刊誌『中国科技史料』(1986)は、「祖国最優秀的科技古籍選目(案)」と題して、以下の書物をあげている。括弧(かっこ)内は、本文での表記などの注と、その書がどの分野のものかを示す。
〔戦国時代〕著者不明『考工記』(工芸技術)、墨子『墨経』(物理学)、著者不明『黄帝内経』(本文では前漢の成立とした。医学薬学)
〔西漢(前漢)〕著者不明『周髀算経』(天文学)
〔東漢(後漢)〕著者不明『九章算術』(数学)、張衡『霊憲』(天文学)、張機(張仲景)『傷寒雑病論』(『傷寒論』。医学薬学)
〔西晋〕嵆含(けいがん)『南方草木状』(生物学)
〔北魏〕賈思勰(かしきょう)『斉民要術』(農学)、酈道元(れきどうげん)『水経注』(地理学)
〔唐〕孫思邈『千金要方』『千金翼方』(医学薬学)、張遂(一行)『大衍暦』(天文学)
〔北宋〕沈括『夢渓筆談』(総合類)、蘇頌『新儀象法要』(天文学)、李誡『営造法式』(建築学)
〔南宋〕宋慈『洗冤集録』(医学薬学)、秦九韶(しんきゅうしょう)『数書九章』(数学)、楊輝(ようき)『楊輝算法』(数学)
〔元〕李冶『測円海鏡』(数学)、朱世傑『四元玉鑑』(数学)、王楨(おうてい)『東魯(とうろ)王氏農書』(農学)
〔明〕李時珍『本草綱目』(医学薬学)、徐光啓『農政全書』(農学)、宋応星『天工開物』(工芸技術)、徐霞客(かかく)『徐霞客游記(ゆうき)』(地理学)
〔清〕朱琰『陶説』(工芸技術)
[宮島一彦]
『藪内清編『中国中世科学技術史の研究』(1963・角川書店/再刊・1998・朋友書店)』▽『藪内清編『宋元時代の科学技術史』(1967・京都大学人文科学研究所/再刊・1997・朋友書店)』▽『藪内清・吉田光邦編『明清時代の科学技術史』(1970・京都大学人文科学研究所/再刊・1997・朋友書店)』▽『吉田光邦著『中国科学技術史論集』(1972・日本放送出版協会)』▽『藪内清著『中国の科学と日本』(1972・朝日新聞社)』▽『藪内清著『中国文明の形成』(1974・岩波書店)』▽『J・ニーダム著、藪内清他監修『中国の科学と文明』1~11(1974~1981・思索社)』▽『藪内清著『科学史からみた中国文明』(1982・日本放送出版協会)』▽『ジョセフ・ニーダム著、牛山輝代訳『中国科学の流れ』(1984・新思索社)』▽『ロバート・K・G・テンプル著、牛山輝代監訳『図説 中国の科学と文明』(1992・河出書房新社)』▽『杜石然他編著、川原秀城他訳『中国科学技術史』上下(1997・東京大学出版会)』▽『藪内清著『中国古代の科学』(講談社学術文庫)』▽『藪内清著『中国の科学文明』(岩波新書)』