改訂新版 世界大百科事典 「中国医学」の意味・わかりやすい解説
中国医学 (ちゅうごくいがく)
Zhōng guó yī xué
中国で発達した伝統医学をいい,現在でも中国とその周辺諸国で用いられている。日本もこの医学を受け入れ,1883年(明治16)西洋医学を習得することが医師に義務づけられるまで,もっぱらこの体系による治療が行われてきたが,江戸時代以後は中国本土とは違う独特の展開をみせた。これを漢方医学というが,この言葉は中国医学とほとんど同義に使われることもあるから注意を要する(東洋医学)。
特徴
中国医学で用いている薬品は,生薬(しようやく)つまり乾燥とか細切などの簡単な加工を施しただけの天産品である。生薬の使用は高度に発達した近代の西洋医学を除けば普通に見られることで,珍しい現象ではないが,中国医学の場合にはその性質や使用法を含めて,独特の理論体系に従っている点が他に例のない特徴である。中国の臨床医学では外科手術の類はそれほど発達せず,薬物を使用する内科療法が主体であった。また現在の基礎医学とは違って,人体の生理・病理現象を,むしろ哲学的な観点から論じた理論医学の体系が存在する。そのほかに中国医学独特の分野としては鍼灸(しんきゆう)があり,薬物についての知識は本草(ほんぞう)(本草学)という分野で蓄積された。錬金術の一種ともいえる練丹術以外には近代科学に見られるような実験はほとんど試みられなかった。
理論の形成
言い伝えによれば,中国の医学理論は黄帝が作り,薬物についての知識は神農によってまとめられたという。しかし,この話は中国の医学の起源の古いことを示すものではあるが,このような伝説上の帝王の名は,これらの分野の知識を権威づけるために用いられたものにすぎない。疾患についての最も古い記録は殷の甲骨文に見られ,目や歯の痛みなどの数種の疾患が記載され,祖先のたたりによって起こるものと考えられていた。当時の治療についてははっきりしないが,祭祀の類が多かったことは確かであろう。次の周代(前11~前4世紀)にもまとまった医学書があったかどうかは不明であるが,現存するこの時代の各種の書のなかに医療に関する記事が多く見られ,それによって医学や薬物についての知識が増加したことがわかる。
医の正字は醫であり,その初文は毉である。そして医者の始祖がシャーマンの巫彭(ふほう)と伝説されるように,医療の面ではまじないがよく用いられたことは否定できない。しかし《周礼(しゆらい)》の記載によれば,医療制度も確立されて疾医,瘍医などの専門化も起こっている。このほかに扁鵲(へんじやく)などに代表されるような民間の医者も存在した。中国医学の思想体系がととのいはじめたのはこの時代で,遅くとも戦国時代の末には陰陽説が導入され,経脈の考えが発生していたと考えられる。五行説の導入も同じころに行われたと推定される。三陰(太陰,少陰,厥陰),三陽(太陽,少陽,陽明)などは医学だけにみられる説(経絡)であり,陰陽説の発展には医家がかなり貢献したと考えられる。《黄帝内経素問》(通常《素問》と略称),《黄帝内経霊枢》(《霊枢》)など後世の医学理論の基礎になった書は,これまで漢代に存在したと記録されている《黄帝内経》の一部であり,その内容は漢代の医学思想であると信じられていた。この点についてはこれまで確証は得られなかったが,1972年に甘粛省武威県の後漢初期の墓(武威漢墓)から処方集が,73年湖南省長沙市の馬王堆漢墓3号墓(前168築造)から10種以上の医書が出土して,漢代の医学の発達の状態がかなり明らかになった。
すなわち《素問》や《霊枢》の経脈説は馬王堆の《陰陽十一脈灸経》をさらに発展させたもので,気,血などの考えも導入して,陰陽説や五行説の立場からさまざまの理論付けを試みている。馬王堆の《五十二病方》は処方集であるが,武威の医簡に比べるとはるかに未発達の段階にあり,この2書が書かれた200年ほどのあいだに非常に大きな発達のあったことがわかる。また薬物についての知識が本草書という形にまとめられたのも後漢の前半ごろの可能性が強い。したがって《素問》《霊枢》そのものではなくても,そのもとになった書が編纂され,それまでに存在した諸説を一つの理論体系にまとめあげて医学の理論の基礎が築かれたのは,従来の推定通り漢代,ただし前168年以後と考えてよいであろう。
これらの書に述べられている説によると,人体には12の経脈とその分枝である絡脈という脈管が存在し,そのなかを気と血が流れているという。経脈はそれぞれ一つずつの臓と腑に関係をもち,その気は四季や時刻なども含めた外部環境の陰陽五行的移り変りに対応して形や強さを変えて人体の生理現象を営んでいる。したがって気の調和がとれていれば健康で長生きするが,調和が乱れれば病気になり,身体の異常は脈の状態で知ることができ,脈に治療を施すことによって病気を治すことができるとする。ただし,これらの書の説は随処に矛盾もあり,首尾一貫していない。たとえば脈といっても経脈を意味することもあるが,脈拍のこともあり,血脈つまり血管を指すこともある。また気にも外から侵入して病気を起こす邪気とか生命現象を維持している気があり,体内の気も陰と陽の気に分類したり,脈のなかを流れている営気とその外に衛気があるとしたりして,それらの関係は必ずしもはっきりしない。古代中国では,医学理論と治療法と薬物の知識はそれぞれ違った人たちによって維持されてきて,それら相互のあいだにはあまり交流はなく,医学理論は漢代に確立されたのち,しばらくはそれほど重視されなかったと考えられる。
→経絡
臨床医学の発展
これに対して,より実用的な臨床医学の分野では絶えず改良が重ねられ,六朝時代(3~6世紀)には多くの処方集が著された。現存の《外台秘要(げだいひよう)》(752撰)や《医心方》(984撰)に引用されている処方の多くはこの時代のものであり,《千金方》の処方もこのようなものが多いと考えられる。《傷寒論》もそのような処方集の一つで,後漢末に張仲景によって編纂されたといわれているが,傷寒病(急性発熱性伝染病で発疹チフスともワイル氏病ともいわれる)の経過を太陽,陽明,少陽,太陰,少陰,厥陰の6時期に分け,それぞれの時期の病状の推移を記述し,それに応じた治療法を述べたものである。症候としては特に脈拍の性状を重視し,治療はもっぱら薬物療法により,それも湯剤の使用が多いという点に,他の書にみられない特徴がある。病気の分類に用いた太陽以下の語は《素問》などに用いられているものと同じであるが,その内容はそれらと関係はない。その成立時期についてはまだ研究の余地が残っているが,中国臨床医学の代表的な書であることはまちがいない。鍼灸についても刺激点である経穴(つぼ)が発見され,それらの知識は皇甫謐(こうほひつ)(215-282)によって整理されて《甲乙経》中にまとめられ,その後の鍼灸療法の基準になった。また重要な診断法である脈診についての知識をまとめた《脈経》は晋の初期(3世紀後半ごろ)に王叔和によって著されたとされ,陶弘景が当時存在していた本草書を整理して《神農本草経》(《神農本草》)を編纂したのは500年ころである。この2書もその後それぞれの分野の基本的な書とされて重視された。
中国医学の次の大きな発展期は金・元時代(12~14世紀)に訪れたが,その萌芽はそれに先立つ隋・唐時代にすでに認められる。《太素》(《黄帝内経太素》)が楊上善によって,《素問》が王冰(おうひよう)によって編纂されたのもこの時代である。この2書の内容がそれまで伝えられてきたこの系統の書とどの程度まで一致しているかは明らかではないが,この2人によって編成しなおされたことによって当時の人にとって読みやすくなったのは事実らしく,六朝時代にそれほど研究された形跡のないこの書が,その後はよく読まれるようになった。《霊枢》は編纂時期も著者も不明であるが,その出現は上記の2書よりもう少しのちの時代である。唐の時代には《傷寒論》の撰者とされている張仲景の見直しが行われた。敦煌文書中の《張仲景五蔵論》などもそれを示すものであるが,《傷寒論》そのものもこの時代に初めて世に知られるようになった。
実用医学の興隆と金元医学
これらの機運をさらに推進したのが,北宋の1020-70年ごろに国家事業として行われた主要な医書の校勘と出版で,これによって《素問》や《傷寒論》などの医書が入手しやすくなり,多くの人に読まれるようになった。それに続いて12~14世紀には二つの流れが生じた。一つは《和剤局方》で代表されるようなもっぱら実用を目的としたもので,それまでの臨床医学の伝統を受け継いで進めたものといえるが,薬品の使用法にはこの時期にかなりの変化が起こっている。もう一つがいわゆる金元医学である。《和剤局方》の薬品はのちに売薬に移行することになり,その意味でも重要である。この時代には銭乙(1035-1117,小児科)や陳自明(婦人科)といった医者が出現して,臨床医学の分科がはっきりしてきた。これは治療法の進歩にともなってひとりで全科を担当することが困難になってきたことによるものである。
鍼灸の部門でも1026年(天聖4)に王惟一によって銅人の鋳造と《銅人腧穴鍼灸図経》の編纂が行われて,治療体系が完成された。これに対して金元医学が特筆される理由は,それまでの処方集が前代の書から適当と考えられた処方を引用し,それに若干の新しい処方を追加するという方針で編纂されたという事実が示すように,臨床医学がもっぱら経験の積み重ねであったのに対して,治療理論を確立しようとした点である。そのきっかけとなったのは成無己の《註解傷寒論》であったといわれ,《傷寒論》の内容を《素問》の理論で解釈している。その後,金・元の四大家といわれる劉完素,張従正,李杲(りこう),朱震亨(しゆしんこう)をはじめ,張元素,王好古(1210?-1310?),羅天益(1220?-1290?)など多くの医家が出現し,それぞれ特徴のある理論と治療法を主張した。たとえば劉完素と張従正は寒涼派といわれるように激しい作用を持った薬を多く用い,李杲と朱震亨は温補派(この2人の流れに従った医学を李朱医学ともいう)といわれるように温和な薬を用いることを提唱した。これらの医家がそれぞれの治療理論の共通のよりどころとしたのは《素問》,《難経(なんぎよう)》などの書である。同一書を用いながら正反対ともいえるような多くの学説が出現したのは,前述のようなこれらの書の内容の不統一性によるものであるが,この時代の医家が特に重視した理論は五行説にもとづく五運六気の説,いわゆる運気論である。
この理論は《素問》,特に王冰が作ったともいわれているいわゆる運気七篇に由来する説で,唐代から論じられ,南宋で太医局の試験課目の一つとして指定されるほど流行したものである。治療理論を確立するためには,使用する薬にも理論的裏付けが必要で,特に五行説に重点を置いた薬の性質の意味づけと,各薬品がそれぞれ特定の経脈に影響を与えるという帰経説が強調された。これらの説は,劉完素の《素問病機気宜保命集》や張元素の《潔古珍珠囊》などにみられるが,王好古の《湯液本草》はこれらの説も含んだ金元薬理説の代表的な書である。金・元時代にはこのように医学理論が大いに発達したが,これが医療の進歩にどの程度貢献したかは不明である。いずれにしても明以後は金元医学を重視し,その理論に従った治療が行われた。宋時代の重要な医学書にはこのほかに陳言の《三因方》がある。この書も《素問》の考えを金・元の諸家とは異なった方向に発展させたもので,病因を内因,外因,不内外因の3種に分類し,後世に大きな影響を残した。
明・清時代には呉有性(1592-1672)の《瘟疫論》(1642)など,伝染病についての新たな展開が起こっている。彼によるとこの病気は風とか寒などによるものではなく,天地の間に存在する戻気という一種の異気に感じて起こるもので,戻気は口や鼻から体内に入り,膜原すなわち横隔膜のあたりにやどるという。温病説はその後さらに進展をみせ,葉桂(1667-1746)の《温証論治》(1746)などが著されている。本草もこの時代に大きく進歩した分野で,李時珍の《本草綱目》(1596ころ刊)はさまざまの評価を持った書であるが,それ以後この分野の研究の中心になり,これを無視して明末以後の本草を論ずることができないことだけは確かである。
中国文明における中国医学
中国医学は早くから発達していたが,臨床治療面では西洋医学に近年急速な進歩が起こったのに,中国医学ではそのような改革が起こらなかったため,現在では全体としては西洋医学より劣ってしまったのは否定できない。その原因としては中国では一般に哲学や文学などが重んじられて技術的なものが軽視されたため,医学の分野でも実験が行われず,問題点の解決には理論的に矛盾をなくすことだけが試みられたことと,古典を重視し過ぎたためにそれから脱却できなくなったことなどが考えられる。《素問》などの理論が現在でも用いられているということは,これらに含まれている思想が非常にすぐれたものであることを示す事実ではあるけれども,その後の進歩があまりなかったことをも意味している。中国医学に近代的な意味での実験や観察が欠けていたことは,各時代の社会思想の影響を強く受けるという結果をもたらした。
また中国儒教世界では職業としての医療行為は蔑視されたが,近親者などの不時の用に備えて医学知識を持つことは奨励されたため,多くの文化人に医学書を読ませる結果になり,この傾向をさらに助長した。すなわち漢代に《素問》などの書が編纂されて中国医学思想の基礎が確立されたのは,当時さかんに論じられていた陰陽説,五行説,天人感応説や黄老思想に刺激されて,それらを利用して人体の生理・病理現象を解釈しようとしたことによる。陰陽説や五行説には逆にこのような試みを通してさらに発展させられたと考えられる面もある。また中国医学の第2の転換期であった金・元の時代には,宋学に代表される合理主義の考えがあった。《素問》はこのような傾向を持った当時の文化人にとっては魅力的な自然哲学書であって,多くの人の研究の対象になった。それまで単に経験の積み重ねに過ぎなかった臨床治療法の理論づけにこの書が用いられたのもそのためである。中国の医学は前記のほかにも各方面の知識を吸収してきたが,その影響がはっきり残っているものはそれほど多くない。《太素》の楊上善注と《素問》の王冰注は老荘的色彩を帯びている。このような解釈はその後のこれらの書の研究に多くの人を引きつける一因になったと考えられる。一方,本草の発達には漢時代の方士や陶弘景などの道教関係者が貢献したが,成立当初に方士たちの思想が取り入れられただけで,その後の神仙家や道士たちの理論面での影響は希薄である。
後漢以後に中国に流入した仏教医学は,六朝から唐時代にかけては多くの文献を残しているが,その後中国医学の伝統のなかに同化されてしまい,元の時代に伝えられたイスラム医学はほとんど影響を残していない。また明末以後に伝えられた西洋医学もまったく異質のものとして扱われ,中国医学との融合が試みられるようになったのは,中華人民共和国成立以後である。現在,中国伝統医学はその固有の療法で近代西洋医学で治療困難とされている多くの患者を救うことができるであろうと期待されているだけでなく,全身の生理機能の調和からの逸脱という観点でとらえようという疾病観が,西洋医学の行詰まりを打開するのに役立つであろうと注目されている。
執筆者:赤堀 昭
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