アダムシャール(読み)あだむしゃーる(英語表記)Johann Adam Schall von Bell

デジタル大辞泉 「アダムシャール」の意味・読み・例文・類語

アダム‐シャール(Johann Adam Schall von Bell)

[1591~1666]ドイツイエズス会宣教師漢名湯若望とうじゃくぼう。1622年、明朝ころ中国に渡り、伝道。西洋天文学による「崇禎暦書すうていれきしょ」を完成し、清代には欽天監きんてんかん監正に任じられた。

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精選版 日本国語大辞典 「アダムシャール」の意味・読み・例文・類語

アダム‐シャール

  1. ( Johann Adam Schall von Bell ヨハン━フォン=ベル ) ドイツのイエズス会宣教師。中国名は、湯若望。一六二二年中国に渡り、明・清朝のもとで西洋暦法紹介望遠鏡鉄砲製造などを行なう。のちキリスト教排斥運動のため投獄され、獄中で没した。(一五九一‐一六六六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アダムシャール」の意味・わかりやすい解説

アダム・シャール
あだむしゃーる
Johann Adam Schall von Bell
(1591―1666)

中国の明(みん)朝末期から清(しん)朝初めに布教と天文暦算に活躍したイエズス会士。漢名は湯若望(とうじゃくぼう)、字(あざな)は道未(どうみ)。ドイツ(当時神聖ローマ帝国)のケルンの名門の出で、その地のキリスト教学校で諸科を学び、ローマに留学。1611年イエズス会士となり、1622年トリゴーNicolas Trigault(1577―1628。漢名金尼閣(きんにかく))とともに中国に赴き、北京(ペキン)で中国語を修得。ここでの月食の予報計算が三たび的中して名声を博した。西安で布教にあたったが、1630年テレンツJohann Terrentius(1576―1630。鄧玉函(とうぎょくかん))の死に伴い、山西地方にいたローGiacomo Rho(1593―1638。羅雅谷(らがこく))とともに北京に召還され、徐光啓(じょこうけい)らを助けて西洋天文学に準拠した『崇禎暦書(すうていれきしょ)』を完成した(1634)。これによる改暦は明朝末期の混乱で実現しなかったが、1645年、清朝のもとで欽天監監正(きんてんかんかんせい)(天文台長)に任じられ、『崇禎暦書』に基づく『時憲暦(じけんれき)』を完成(のち、乾隆帝(けんりゅうてい)の諱(いみな)である「弘暦(こうれき)」の暦の字を避け、『時憲書』と改められた)。この暦は1645年から1911年の清滅亡まで施行された。

 清の世祖順治帝(じゅんちてい)(在位1643~1661)の厚遇を受けた彼は、1650年には北京最初の西洋建築である天主堂(南堂。改築されたものが現存)を建て、また、他の宣教師の便宜も図り、北京にきた朝鮮皇子にも宗教書や天文器械を贈るなど、布教に努めた。しかし1664年、楊光先(ようこうせん)(生没年不詳)の誣告(ぶこく)により逮捕され、フェルビースト(南懐仁(なんかいじん))の弁護も効なく死刑を宣せられ、欽天監役人や他の宣教師多数も連座した。ところが天変災害が相次いだため、他の神父は釈放、シャールも太皇太后(たいこうたいごう)の命で釈放され、南堂に戻ったが、楊光先らの迫害はやまず、東堂に移され、1666年8月15日に没した。その後1669年、再審の結果、シャールの名誉が回復された。渾天儀(こんてんぎ)、日時計、望遠鏡など科学器械や地図、星図の製作のほか、明末には多数の大砲も鋳造し、漢文著書も清代に『崇禎暦書』を再編した『西洋新法暦書』100巻など、天文書を中心に30余編ある。

[宮島一彦 2018年2月16日]

『藪内清著『中国の天文暦法』(1969/増補改訂版・1990・平凡社)』『榎一雄編『東西文明の交流5 西欧文明と東アジア』(1971・平凡社)』『陳舜臣編『人物中国の歴史8 落日の大帝国』(1982・集英社/集英社文庫)』『アドリアン・グレロン著、矢沢利彦訳『東西暦法の対立――清朝初期中国史』(1986・平河出版社)』『矢沢利彦著『北京四天主堂物語――もう一つの北京案内記』(1987・平河出版社)』

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旺文社世界史事典 三訂版 「アダムシャール」の解説

アダム=シャール
Johann Adam Schall von Bell

1591〜1666
ドイツのイエズス会宣教師。中国名湯若望 (とうじやくぼう)
1622年中国にわたり,明朝に重用され,徐光啓の協力で『崇禎暦書』を編纂 (へんさん) 。火砲も鋳造した。明の滅亡後,清に仕え,欽天監正(天文台長)に任命された。また北京に大天主堂(南堂)を建立したが,イスラーム学者のざん言にあって失脚,北京で没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アダムシャール」の解説

アダム・シャール
Johann Adam Schall von Bell 湯若望

1591~1666

ドイツのイエズス会宣教師。1622年中国に渡来,明の崇禎(すうてい)帝の命により暦法の改修や大砲の鋳造にあたった。明が滅ぶと清に仕えて「時憲暦」をつくり,天文台の長官となったが,イスラーム暦法家の攻撃にあい失脚した。

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改訂新版 世界大百科事典 「アダムシャール」の意味・わかりやすい解説

アダム・シャール

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世界大百科事典(旧版)内のアダムシャールの言及

【シャール】より

…ドイツのケルン生れのイエズス会宣教師。天文学を学び,1622年(天啓2)に中国に渡った。漢名は湯若望。はじめ西安で布教活動に従事していたが,明末の1629年(崇禎2)に礼部左侍郎の職にあった徐光啓が宣教師の助力を得て,西洋天文学を基礎として改暦を行うため,西洋天文学書の漢訳を計画した。この翌年,シャールは北京に招かれこの事業に参加し,やがてその中心となった。1633年に徐光啓は亡くなったが,その翌年にこの事業は完了し,135巻にのぼる西洋天文学の叢書《崇禎暦書》となった。…

※「アダムシャール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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