翻訳|Persian Gulf
イラン高原とアラビア半島との間にある湾。アラビア語でバフル・アルファーリスBaḥr al-Fāris,あるいはハリージュ・アルアラビーKhalīj al-`Arabī(〈アラビア湾〉の意),ペルシア語でハリージェ・ファールスKhalīj-e Fārsという。現在,湾岸にはイランのほかにアラブ系のイラク,クウェート,バーレーン,カタル,アラブ首長国連邦の諸国がある。現代においてはホルムズ海峡を境に東側をオマーン湾,西側をペルシア湾と呼んで区別しているが,10世紀のアラブの地理学者マスウーディーによると,当時のペルシア湾はオマーン湾を含む海域と考えられていた。同時期の地理学者イスタフリー,イブン・ハウカルの場合,その範囲はさらにひろがって,アラビア海,インド洋までがその海域にいれられている。現在の狭義のペルシア湾は南北の長さ約912km,東西の幅平均320km,水深は平均が72mである。湾の幅が最も狭まるのはホルムズ海峡においてで,その間の距離は46.7kmである。
この湾に注ぐおもな河川は,北の湾奥に流れこむシャット・アルアラブ川である。この川はティグリス川,ユーフラテス川がその下流域で合してできた河川である。これら河川の氾濫によって下流域は沼沢地になったり,また沈泥の堆積によって湾の最奥部の海岸線は歴史的には北から南へと後退してきている。現在は,アバダーンの南30kmの所が海岸線になっているが,14世紀のアラブの旅行家イブン・バットゥータの時代にはアバダーンの南4.8kmの所が海岸線になっていた。これより以前の11世紀前後の地理学者マクディシーによると,海はアバダーンの町のすぐ近くにまで迫っていたという。有史以前においては,南イラク全域が海の下に水没していたともいわれている。
ペルシア湾の沿岸地域は,古来みるべき産業がなく,例外は前2000年ころのアッシリア時代にすでに知られていた天然真珠の採取で,これは現在でもバーレーンを中心に行われている。商業,貿易は未発達な産業を補うものとして湾岸地域の経済を支えてきた。インド洋からこの湾を経由してメソポタミア,アナトリアへ至り,ここから地中海へと抜けるルートは,中央アジア,イラン高原から西へ向かう内陸ルート,インド洋からイエメンを中継地として紅海,地中海に達するルートと並んで,東西交易の幹線ルートの一つであった。とくにアラブがこの地域を征服してイスラム化し,バグダードを首都にしたアッバース朝が支配していたころが黄金期で,ペルシア商人がこの海域を舞台に縦横無尽の活躍をみせていた。彼らははるか遠くインド,中国にまで出かけていた。当時のペルシア湾貿易の中心の港はイラン南岸のシーラーフSīrāf(現,ターヘリー)であった。
ブワイフ朝後期になると,シーラーフに代わって11世紀前半より13世紀前半までアラブの族長カイサル家の拠るキーシュKīsh島がホルムズ海峡の出入口を扼する地の利を生かして栄えた。しかし,イランにモンゴル族のイル・ハーン国が成立すると,沿岸部のホルムズHormuz(現,ミナーブ)に繁栄が移り,この港にはオドリク,マルコ・ポーロなどが訪れ,その名はあまねく中世のヨーロッパにも知れわたった。
1507年,ポルトガルの航海者で第2代インド総督のA.deアルブケルケはこの港の支配者を服従させることに成功し,15年にはここを占領してインド洋の香料貿易の中継基地にした。しかし,34年オスマン帝国がバグダードを占領すると,ペルシア湾の西岸地域にあたるアラビア半島のアフサーへの影響力を強めて,湾岸地域への浸透を図った。またイランでは,サファビー朝のシャー・アッバース1世が,1622年オランダ,イギリスそれぞれの東インド会社艦隊の援助を得てポルトガルを破り,ホルムズを奪還した。彼はペルシア湾に恒久的な影響力を行使しておくために新たにバンダル・アッバースの港を建設した。
18世紀末になるとオランダ,イギリスの両東インド会社が握っていたペルシア湾の制海権にかげりがみえはじめる。湾岸各地に拠る首長,とくにクウェートのサバーフ家,バーレーンのハリーファ家,カタルのサーニー家などが台頭してきて,この湾を航行する商船に対して盛んに海賊行為を働いた。また彼らは奴隷貿易にも熱心であった。これらアラブ系の首長の行為に手を焼いたイギリスは19世紀初期からペルシア湾に政治的な介入を開始し,1820年に首長スルタン・ブン・サカルを破り,53年湾岸諸部族と恒久平和条約を結んだ。これによって海賊行為と奴隷貿易がやみ,事実上トルーシャル・オマーンTrucial Oman(現在のアラブ首長国連邦の地域)とオマーンがイギリスの保護国になっていった。
20世紀に入ると,湾岸地域は石油生産の面で世界の最重要地域になった。1932年のバーレーンにおける石油採掘の開始,38年のサウジアラビアに続いて,60年代にはアブ・ダビー(1962),カタル(1964),ドバイ(1969)でも操業が本格的に始まり,70年代には世界の必要量の50%(日本は85%)を供給するまでになった。これによって経済動脈としての重要性がますます高まり,戦略的にも一触即発の危険をはらむ地域になっている。
執筆者:坂本 勉
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南西アジアにある広大な湾。アラビア半島の北東岸とイランの南西岸によって画され、東端はホルムズ海峡を経てオマーン湾へと通じる。ペルシア語ではハリージェ・ファールスKhalīj-e Fārsといい、アラブ諸国はアラビア語で「アラビア湾」の意ハリージュ・アル・アラビーKhalīj al-‘Arabīを慣用する。長さ約900キロメートル、幅250~350キロメートル、面積約23万9000平方キロメートル。水深は最大170メートルに達するが、山地が海に迫っているイラン側が、砂浜の広がるアラビア半島側に比べて深い。北西端のシャッタル・アラブ川の河口付近には三角州の発達がみられる。水温は平均24℃、8月には32℃にも達し、表面塩分は平均約37、水域によっては約40を示す。湾岸にはイランのほか、イラク、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタールおよびアラブ首長国連邦がある。
古くから天然真珠の採取や漁業が営まれてきたが、20世紀に入ると湾岸や海底で相次いで油田が発見され、世界的な産油地帯として注目されるようになった。ラス・タヌラ(サウジアラビア)、ミナ・アル・アハマディ(クウェート)、ハル・アル・アマヤ(イラク)、ハールク島(イラン)などの石油積出し港がある。天然ガスの開発も進み、石油、天然ガスを原燃料とし、それらの販売、採掘利権料収入を資金とした工業化も湾岸各地で進んでいる。エビ、イワシ、マグロなどの水産資源も豊富。
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