中子村(読み)なかごむら

日本歴史地名大系 「中子村」の解説

中子村
なかごむら

[現在地名]栃尾市仲子なかご町・あずま町・ほん

刈谷田かりやだ左岸、南は滝之下たきのした村、西は向谷地むかいやち。かつては刈谷田川西谷にしだに川の合流点にあたり、土砂堆積によってつくられた中洲状地帯で、栃尾町とちおまち村の新開地。現在の合流点は下に押しやられている。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に高一一六石三斗余。寛政七年(一七九五)の栃尾組検地帳書抜(金内襄治氏蔵)によると、正保二年(一六四五)の検地では分米一一一石余。宝永二年(一七〇五)の栃尾組村郷田畑高命帳写(坂牧家文書)によると、当村は栃尾町村の町百姓のため町中了承のもと城山での焼畑を勝手に行っている。家数二・名子四、人数三二。元文元年(一七三六)には洪水のため高三石分が川欠けとなり、願いによって栃尾町村へ入れられた(栃尾組検地帳書抜)


中子村
なかごむら

[現在地名]松代町中子

曲流する渋海しぶみ川に囲まれた左岸にあり、対岸東は滝沢たきざわ村、南は片桐山かたぎりやま村。尾根上で松之山まつのやま街道に合流する旧道がある。天和三年郷帳では高三一石七斗余。反別五町七反余、うち田一町二反余、畑四町余、漆木二〇本(文政八年「手鑑帳」立教大学蔵)明治八年(一八七五)従前検地帳高内田畑屋敷外書上帳(同大学蔵)には天和三年(一六八三)検地の記述があり、一一ヵ所に切替畑があり反別一町一反余、一〇ヵ所に青苧畑があり反別四反余、二六ヵ所に雑木林があり役金一一銭、一〇ヵ所に芝山があり役金一二銭、字栃山に用水溜があると記す。安永九年(一七八〇)新田検地では高九石三斗余。文政八年(一八二五)の高四四石二斗余・反別九町六反余、家数二六、男六九・女五四、用水堰として字上島江筋と金沢江筋が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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