中川五郎治(読み)なかがわごろうじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中川五郎治」の意味・わかりやすい解説

中川五郎治
なかがわごろうじ

[生]明和5(1768).陸奥
[没]嘉永1(1848).9.26. 松前
江戸時代後期の医師。日本で初めて種痘を行なった人。松前藩役人であったが,文化4 (1807) 年エトロフ島でロシア人に捕えられ,オホーツク,イルクーツク滞留中に種痘術を学び,『牛痘種法』2冊を持って同9年に帰国した。その1冊を馬場佐十郎が訳し,『頓花秘訣』と題した。文政7 (24) 年には松前で種痘を行い,同9年,天保6 (35) 年,同 13年の天然痘流行から多くの人命を救った。のち名を儀貞郎と改めて 80歳まで松前藩に仕えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中川五郎治」の解説

中川五郎治 なかがわ-ごろうじ

1768-1848 江戸時代後期の種痘法導入者。
明和5年生まれ。千島択捉(えとろふ)島の会所番人。文化4年ロシア船に捕らえられ9年帰国。シベリア滞在中に牛痘接種法をまなび,もちかえった種痘書はのち馬場佐十郎が翻訳。文政7年松前(北海道)で種痘を実施した。嘉永(かえい)元年9月27日死去。81歳。陸奥(むつ)北郡(青森県)出身屋号は小針屋。名は佐七。

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世界大百科事典(旧版)内の中川五郎治の言及

【医学】より

…彼がそれを発表したのは1798年であったが,実効が広く認められたのは19世紀の初頭であった。情報として日本に伝わったのも,19世紀初頭から1820年代にかけてで,一つは長崎のオランダ商館経由で,いま一つは,千島からロシア船に拉致されて,5年間ロシア生活を送って帰って来た漁師中川五郎治によるものである。1820年ころからは長崎で何度か試みられたが成功しなかった。…

※「中川五郎治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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