翻訳|smallpox
痘瘡(とうそう)、疱瘡(ほうそう)ともよばれ、伝染力がきわめて強く、昔は大流行を繰り返して多数の死亡者を出した急性発疹(ほっしん)性伝染病で、WHO(世界保健機関)の根絶宣言で知られる。すなわち、WHOは1967年に天然痘根絶本部を設け、各国の協力を得て50万人を動員し、総額1億ドルを投じて大規模な天然痘根絶計画を発足させた。天然痘は人類だけが罹患(りかん)する病気であり、種痘によって予防できる病気であることに着目して、天然痘の発生地域に種痘を徹底的に実施したのである。すでに種痘の普及によって根絶されている国もあったが、69年にはまだ42か国に10万人を超える患者発生がみられた。その後は毎年発生国と患者数が減少し、南アメリカ、東南アジア、南アジアなどの各地域でも次々と天然痘が終息していき、残る東アフリカ地域で77年10月のソマリア人の患者を最後として、ついに全世界から天然痘患者の発生がなくなった。以後2年間、東アフリカで厳重な集中的追跡調査を行ったうえで79年10月26日、WHOの現地調査機関である国際天然痘根絶委員会は天然痘の根絶を報告し、同日WHO事務局長から宣言された。この天然痘根絶宣言は80年1月の第65回WHO執行理事会で承認され、5月8日の第33回世界保健総会において正式に天然痘根絶が確認された。この結果、81年5月の第34回世界保健総会で国際保健規則の検疫伝染病(検疫感染症)から天然痘関係条項を削除する改正が採択され、82年1月1日から施行された。
日本では奈良時代から大小の流行を繰り返してきたが、1946年(昭和21)の流行を最後に下火となり、55年の1例の報告以後根絶した。その後は、73年と74年にそれぞれバングラデシュおよびインドからの帰国者各1人の輸入例による発生があっただけである。
[柳下徳雄]
天然痘は病原ウイルスの毒力の強弱、感染した人の素質、種痘による免疫の程度などによって症状や経過に著しい差異を生ずる。このため、病型に対するさまざまな分類がある。たとえば、本型variola major(古典的天然痘ともいう)と亜型variola minor(アラストリムともいう)の2型に分類したものもあるが、一般には真痘、仮痘、出血性(紫斑(しはん)性)痘瘡の三つに分類される。
[柳下徳雄]
それぞれの病型について述べる。
(1)真痘 熟痘ともいい、種痘を受けたことのない者、または種痘後数年以上経過して免疫のなくなった者にみられる重い病型である。潜伏期は10~13日。急に寒気がして高熱を発し、強い頭痛や腰痛がある。発病2日目ごろに紅色の発疹(前駆疹)が普通は以前に種痘を受けた上腕の外側に出るが、ときには全身に現れる。この前駆疹は3~4日で消えるが、4日目ごろから多数の小さくて赤い丘疹が顔面から始まって全身に現れる。このころ熱が一時的に下がるが、1日くらいでふたたび38℃前後に上昇し、約1週間続く。天然痘はこの発疹(痘疹)の変化に特徴があり、赤い小丘疹は2日くらいで水疱(すいほう)となり、中央がくぼむ。発病8日目ごろには水疱の内容が黄色に混濁して膿疱(のうほう)となり、同様なものが鼻腔(びくう)、口腔、咽頭(いんとう)などの粘膜面にもできる。この全身の発疹は一様に進行し、痛がゆく、意識もはっきりしなくなって肺炎や敗血症を併発し、衰弱して死亡することもある。この時期を過ぎて発病12日目ごろになれば、膿疱が乾いて痂皮(かひ)(かさぶた)となり、熱も下がって平熱に戻る。痂皮がとれると瘢痕(はんこん)となって皮膚に小さなくぼみをつくり、いわゆる「あばた」を残す。これが典型的な天然痘である。
(2)仮痘 和痘ともいい、天然痘にある程度の免疫のある者が感染した場合にみられる軽い病型である。病初期の数日間は真痘の場合と同様であるが、その後の経過が軽く、特有の痘疹は現れないか、現れても数が少なく、完全に発育しないで終わるので、水痘との鑑別がむずかしくなる。また、二度目の発熱もなく、瘢痕も残さないのが普通である。
(3)出血性痘瘡 出血痘ともいい、一部の人にみられる重い病型で、アレルギーによるとされている。病初期の症状が激しく、前駆疹がほとんど全身にみられ、紫斑病様となるほか、鼻出血や子宮出血、血便などもみられる。5~6日まで生存すれば痘疹も出現するが、これにも出血がみられ、早晩死亡するに至る。
[柳下徳雄]
患者の皮膚や粘膜の痘疹が破れ、内容が飛散して直接または物品を介して呼吸器、消化器、皮膚の小さい傷口から侵入する。
[柳下徳雄]
種痘によって左右され、種痘を受けたことのない患者の致命率が50%以上なのに対し、種痘をした患者の致命率は1%以下となっている。なお、流行病原体の種類によっては1%以下の軽症や30%台の重症型もある。
[柳下徳雄]
痘瘡ウイルスはポックスウイルスともよび、ヒトの天然痘をはじめ、ウシの牛痘、ネズミの鼠痘(そとう)、ヒツジやヤギの羊痘、ブタの豚痘、ニワトリの鶏痘などをおこす病原ウイルスの総称である。DNA二重鎖を中心にもった大型のウイルスで、病原性を示す動物が異なるという宿主の特異性のほかには各ウイルス間に差異がみられない。乾燥に対する抵抗力がきわめて強く、乾いた痂皮中のウイルスは年余にわたって感染力(発病力)をもっている。また、0.5~1%の石炭酸水中でも死滅せず、グリセリンに対しても強い抵抗を示すが、熱や紫外線に対しては抵抗力が弱い。すなわち、55~60℃で不活性化され、直射日光を受けると数時間で死滅する。
[柳下徳雄]
天然痘は人から人へ感染する以外にはその病原ウイルスが維持されないため、人間の病気として定着したのは、農耕による定住生活が始まり人口が集中し始めた、いまからおよそ1万年前のことと推定されている。もっとも古い天然痘の証拠としては、紀元前1160年ごろに死んだエジプトのラムセス5世のミイラの顔などに残る痘痕(とうこん)(あばた)があげられる。文献的には、それより以前のインドの記録に天然痘と推定される病気の記述があり、天然痘はインドから世界中へ広がっていったものと考えられている。ヨーロッパへの天然痘の侵入はかなり遅くなってからといわれているが、ペロポネソス戦争第2年目の前430年にアテナイ(アテネ)を襲った疫病は天然痘であろうという説もある。中国へはインドから西域(せいいき)経由で前2世紀末、または遅くとも4世紀初めごろに侵入したといわれており、それが朝鮮半島経由で日本にも伝わったと推定されている。また、アメリカ大陸にはスペイン人との接触以前には天然痘はなかったといわれ、そのために天然痘に対する免疫がなく、接触後の大流行を招き、人口急減の一因となったと考えられている。
日本で明らかに天然痘と考えられる病気のもっとも古い記述は、735年(天平7)のものであるが、6世紀後半(552、585)の発疹(ほっしん)を伴う疫病を天然痘であるとする説もある。天然痘は一度罹患(りかん)すると再発しないことは知られていたが、その病因については、胎毒とする説、歳運によるとする説、天地の沴気(れいき)によるとする説、食習慣が原因とする説などがあり、江戸時代後期になってようやく天然痘を純然たる伝染病であるとする見解が医家の間にみられるようになった。しかし、「痘神」あるいは「疱瘡(ほうそう)神」に対する信仰が盛んになったのも江戸時代中期以降である。古代の最初の天然痘流行のときにも、病の平癒を願って神に祈り、あるいは神を祀(まつ)ることが行われてはいたが、天然痘の神として特別の神を祀るようになったのは江戸時代中期ごろといわれ、その神体についても諸説あったという。天然痘の発病から治癒に至る経過はある程度規則性があるため、その病期分類が盛んに行われたが、治癒法は対症的なものにとどまった。広く行われていたものに酒湯(米の研ぎ汁と酒を混ぜて沸かしたもので沐浴(もくよく)させる)があり、また、痘の色は赤いほうが経過がよいと考えられていたため、患者や看病する人の衣類、のれん、玩具(がんぐ)などに至るまですべて赤色のものを使う風習もあった。天然痘は人が一生のうちで一度はかかるものとして、「お役」などとよばれ、人はこれを終えてやっと一人前になれると考えられており、通過儀礼的な意味をももっていた。
予防法としての人痘接種はすでにかなり古くからさまざまな地域で行われていた。具体的には痘疹の痂皮(かひ)(かさぶた)を水に溶かして皮膚を刺したり、これを粉にして鼻腔(びくう)へ吹き込む方法、痘疹の膿性漿液(のうせいしょうえき)をつけて皮膚をひっかいたり、皮膚を刺したりする方法である。前者はアジアの一部や11世紀以後の中国で、後者はアフリカの一部やインドなどで行われていた。伝染を防ぐ目的で患者を隔離するようになったのは近世になってからである。
[武井秀夫]
『蟻田功著『科学・技術の最前線2 地球上から天然痘が消えた日――国際医療協力の勝利』(1991・あすなろ書房)』▽『加藤四郎著『ジェンナーの贈り物――天然痘から人類を守った人』(1997・菜根出版)』▽『二宮陸雄著『天然痘に挑む――種痘医 北城諒斎』(1997・平河出版社)』▽『北村敬著『天然痘が消えた』(中公新書)』
天然痘ウイルスによる伝染力の強い急性発疹性伝染病の一つで,激しい全身症状と特有の水疱性発疹を主症状とする。法定伝染病の一つで,痘瘡(とうそう)または疱瘡(ほうそう)ともいう。古くから人類に甚大な被害を及ぼしたが,E.ジェンナーによる種痘法の発見を契機として予防法が確立され,まず先進国から天然痘が駆逐された。1960年代にはアフリカ,インド周辺,東南アジア,南アメリカでは毎年のように流行を繰り返していたが,WHOの根絶計画に協力した各国の努力の結果,80年5月にはWHOが地球上からの天然痘根絶宣言を発するに至った。地球上から本症は消滅したが,今後とも世界的な監視の目をゆるめることはできない。
病原である天然痘ウイルスは,大きさ200~300nmの大型DNAウイルスで,電子顕微鏡下では煉瓦状である。乾燥,低温に対して抵抗が強く,患者から脱落した痂皮内でも室温で1年以上活性を保ち,-25℃以下では長期間保存できる。しかし日光,紫外線に対しては抵抗が弱く,56℃30分で不活化される。またエーテル耐性であるが,アルコール,ホルマリン,過マンガン酸カリに弱い。患者の痘疹や痂皮にはウイルスが存在し,発育鶏卵の漿尿膜に接種すれば,膜上にポックpockをつくる。培養細胞としてヒト胎児細胞,ヒーラ細胞Hela cell,サル腎細胞が用いられ,動物ではサルやウサギの角膜,睾丸への接種が行われる。自然界ではヒトのほかサルのみが感染する。伝播は主として患者の皮膚粘膜の痘疹からの飛沫感染であるが,患者との接触感染,ウイルスの付着したほこりによる空気感染のほか,汚染衣類などを介する間接感染もある。ウイルスの侵入門戸は気道粘膜が多く,潜伏期は9~14日である。本症はいちどかかれば長期間の免疫を獲得するが,まれには老年期の再罹患例もあるとされる。
天然痘の病型には種々の分類法があり,ディクソンDixon,WHOなどの分類のほか,日本には上田,豊田の分類がある。ここでは種痘を受けていない者での典型的な病型,すなわち真痘variola veraの症状を示す。
(1)前駆期 悪寒,戦慄,高熱をもって突然発病し,倦怠感,食欲不振,悪心,嘔吐,頭痛,四肢痛があるほか,激しい腰痛が特徴的である。また咽頭痛があり,結膜炎,鼻炎などのカタル症状が現れる。これらの症状のほか前駆疹のみられることがある。前駆期が1~3日続いて,いちど熱が下がり,再び発熱すると発疹期に入る。(2)発疹期 4~5病日ころには皮膚に特有の痘疹が現れる。痘疹は初め赤い丘疹であるが,やがて水疱にかわり,2~3日後には膿疱となる。痘疹の出現部位は特徴的で,顔,頸,四肢末端部に多い。(3)膿疱期 7~9病日には高熱が続いて膿疱となり,中央部がへこんで痘臍をつくる。2~3日後には痂皮となり((4)結痂期),1~2週後には痂皮がとれ瘢痕(はんこん)を残して治る((5)脱落期)。発疹が出血型や扁平型を呈するときは予後が悪く,死亡率も高い。既種痘者では,発病しても発疹の経過が速く,軽症に終わる。
発疹の分布,性状および全身症状から天然痘の疑いのある場合,確診をするには次のような方法がある。(1)水疱内容からのウイルス分離,(2)電子顕微鏡像による特有の煉瓦状ウイルス粒子の発見,(3)水疱内容の免疫蛍光法による抗原の証明,(4)水疱内容細胞中の光学顕微鏡的封入体証明,(5)水疱内容液を用いた寒天ゲル内沈降反応,(6)急性期-回復期血清による抗体有意上昇の証明などがあるが,早期診断には(2)(3)(5)が優れている。
特効的な治療法はない。チオセミカルバゾンthiosemicarbazoneは種痘合併症の治療に有効であるが,天然痘に対する効果には賛否両論がある。ワクシニア免疫グロブリンvaccinia immune globulin(VIGと略記)は,潜伏期に用いれば発病予防ないし軽症化に有効とされるが,発病してからの効果は否定的である。したがって対症療法が行われる。
かつて予防接種として種痘が行われていたが,天然痘が世界から消滅した現在,予防接種の必要もなくなった。ただし万一本症が発生した場合に備えてワクチンが貯蔵,保管されている。
→種痘
執筆者:南谷 幹夫
天然痘すなわち痘瘡の発源地については諸説あるが,いちばん有力なのはインドとされており,それが古代民族の移動交流にともなって世界各地に伝播していった。中国には前1200-前1100年ころに流入したともいわれるが,中国の医書《肘後方(ちゆうごほう)》によると,南斉の建武年間(5世紀末)に〈虜瘡(りよそう)〉と呼ばれる疫病が流行したとあり,これが痘瘡と特定できる最初の記録といわれる。おそらく,インドから仏教が伝播していった経路とほぼ同じ道,つまりシルクロードをたどって中国に入ってきたと思われる。またシルクロードと結ばれたスキタイ交易路にのって,痘瘡は西方にも侵入していった。アフリカにも早くから痘瘡があったことが知られているが,古代エジプトには痘瘡はなかった。いっぽう古代ギリシアのペロポネソス戦争中の前430年に流行した〈アテナイの疫病〉と呼ばれた疫病は痘瘡ではないかという説がある。2世紀初頭には痘瘡はヨーロッパ内陸部にまで侵入したと考えられるが,とくに十字軍の移動によって流行が広がり,以後ヨーロッパ人を長く苦しめた。
中国に入った痘瘡は,その後朝鮮半島を経由して,6世紀に仏教伝来と相前後して日本に侵入し,以後大流行を何回か繰り返したあと,日本人を最も長くかつ深く苦しめる疫病となった。たとえば天平時代の流行のときは光明皇后の兄の藤原四兄弟が痘瘡で死亡,平安時代には藤原道長の子女たちも痘瘡で死亡,江戸時代には11代将軍徳川家斉の子女53人全員が痘瘡に罹患し,うち2人が死亡している。また飛驒の一寺院の江戸時代後期の過去帳に記載された死因の首位は痘瘡であり,このうち69%は乳幼児であった。痘瘡は古くは裳瘡(もかさ),疱瘡,痘疹といわれた。痘瘡に関する記述はほとんどの医書にみられ,とくに小児の痘瘡に詳しい。いっぽう痘瘡の病態がきわめて激烈で奇異なところから,〈痘瘡に鬼神あり〉とする信仰が広くゆきわたり,とくに江戸時代になると痘瘡の神として〈疱瘡神〉をまつる風習が広がり,疱瘡神をまつった小祠がわずかに残っている。さらに痘瘡にかかると,疫神をはらうための〈疱瘡祭〉を行う風習があり,患家に集まって贈物を交換したり,食物を分け合う行事が行われた。そのほか迷信的な薬方や護符にすがり,食物の禁忌(タブー)が信じられ,たとえば痘瘡患者の周囲を赤色ずくめにするなどし,〈赤絵〉ともいわれる疱瘡絵が流行した。痘瘡の治療として,江戸時代には〈ささ湯〉という,痘瘡の落痂を促進させるため酒を加えた米の白水(しろみず)をかける風習が広がり,これはやがて出費のかさむ祝事となった。痘瘡患者を隔離する風習は大村藩などで行われていたが,明治時代になると,官憲による弾圧的な強制隔離が実施されるようになり,民衆の反感と抵抗をあおり,深刻な社会問題となった。種痘は幕末に輸入され,医師たちの努力で普及したが,明治年間には1万人前後の死者を出した流行が4回もあった。
→種痘所
執筆者:立川 昭二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 内科学 第10版内科学 第10版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…痘瘡(とうそう)ワクチンの接種(種痘)により十分な免疫をもつ人は痘瘡(天然痘)にかからないが,過去に種痘をうけて年月がたち,痘瘡に対する免疫が低下している人が痘瘡に感染した場合は,発病しても通常,症状が軽く,経過も短く,予後もよい。 このような痘瘡を仮痘あるいは軽痘という。…
…ヒトの天然痘ウイルスに似たウイルスによって起こるウシの皮膚疾患。ジェンナーが〈牛痘にかかったから天然痘にかかる心配はない〉という乳搾りの娘の話からヒントを得て,種痘法を開発したことはよく知られている。…
…92年にセント・アンドルーズ大学から医学博士の学位を得た。 古くからグロスターシャーには,牛痘(天然痘に似たウシの軽い病気)に感染したことのある乳搾りの婦人は,人間の天然痘(痘瘡)にはかからないという俗信があった。天然痘の予防に早くから注目していたジェンナーは,牛痘と人痘との関係について観察を続けたが,96年ついに実験に踏み切り,5月14日,乳搾りの婦人ネームズSarah Nelmesの腕にできた牛痘の水疱から内容液を採取し,8歳少年のフィップスJames Phippsの腕に接種した。…
※「天然痘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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