日本歴史地名大系 「中門跡」の解説
中門跡
ちゆうもんあと
南に向く金堂正面の一二石段の下の壇にあり、大門に対して中門とよばれる。実恵が空海の遺言に基づいて創建したといわれ、もとは石段の上に建てられていた(金剛峯寺巡礼日記・高野山勧発信心集)。金剛峯寺建立修行縁起に「中門一宇、陀羅尼幢二基、已上実恵僧都私建立」とあり、「高野春秋」には承和一四年(八四七)に落慶と記すが、創建年次は不詳。永久三年(一一一五)検校良禅が再建(「金剛峯寺巡礼日記」ほか)。「高野春秋」は同年四月一日落慶供養が行われたとするが、中門の木作始・築壇・居礎・立柱上棟の日時を記した同年七月一三日の陰陽頭安倍泰長日時勘文(宝簡集)、不動堂なる大工に造営を依頼すべきことなどを記した同年八月二一日の僧成誉奉書(同集)などとは日付に齟齬がみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報