丸子宿(読み)まりこしゆく

日本歴史地名大系 「丸子宿」の解説

丸子宿
まりこしゆく

[現在地名]静岡市丸子一―七丁目・北丸子きたまりこ一―二丁目・手越てごし鎌田かまた寺田てらだ丸子芹まりこせり谷町やちよう

東海道五十三次の江戸から二〇番目の宿場。東は向敷地むこうしきじ村・手越村鎌田村・寺田村に接する。西の岡部おかべ宿(現岡部町)へ二里、東の府中宿へは一里一六町(宿村大概帳)

〔中世〕

麻利子などとも書く。文治五年(一一八九)一〇月五日、手越家綱は恩賞地として「麻利子一色」を申請、浪人を招き据えて駅家を建てるよう希望し、これが許可され、源頼朝は交付を内屋うつのや沙汰人に命じている(吾妻鏡)。丸子宿の起源で、当地は宇津谷うつのやの範囲内にあった。弘長二年(一二六二)二月二二日午後、東下する叡尊は「麻利子宿」で休憩している(関東往還記)。当地の所見は戦国期まで少なく、長禄二年(一四五八)閏正月一七日の紀州那智山に対する駿河国富士下方住人願文交名(米良文書)に、「まりこ四郎五郎」とみえるくらいである。永正元年(一五〇四)頃、今川氏家臣の斎藤安元が領有していたが、連歌師宗長は安元に依頼して当地に柴屋さいおく(現柴屋寺)を設け、自ら「丸子閑居」「丸子草廬」などと称する(「何人連歌」駿河記など)。丸子の北の「泉谷」には斎藤安元の代々の宿所や歓勝院(観勝院などとも、現曹洞宗歓昌院)があり、今川氏親が幼少のとき籠居したという(宇津山記)。「信州臨川山定津禅院年表」は、永正元年秋に雲鷹玄俊が丸子観勝院を開いたとするが、同寺はこれ以前の「今川記」にもみえ、再興であろう。なお観勝院領は、天正六年(一五七八)五月二八日の武田勝頼判物(恵運院文書)によって甲斐恵雲えうん(現山梨県甲府市の恵運院)に安堵されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報