丸谷村(読み)まるたにむら

日本歴史地名大系 「丸谷村」の解説

丸谷村
まるたにむら

[現在地名]都城市丸谷町

岩満いわみつ村の南にある。北部は霧島山系の裾野にあたる迫や谷が多く、南半は丸谷川が東流して田地が開ける。同川は東部で向きを変え北に流れる。古くは薄谷すすきだにと称したらしく、この地名西方に字名として残る。天保郷帳などでは薄谷村とあり、「庄内地理志」には「薄谷村ハ丸谷村ノ内ニアリ」と書かれているが、高や集落地名などから同一の村で、幕府提出の郷帳などでは薄谷村、鹿児島藩領内では丸谷村と呼称していたものであろう。なお「三州御治世要覧」「三俣院記」では薄谷・大西おおにしの両所を今は丸谷村と唱えるとある。大西は北東方丸谷川流域にあたるか。

応永一九年(一四一二)三月二〇日の島津久豊宛行状(樺山文書)によれば、久豊が島津安芸守(樺山教宗)に給分として与えた島津庄日向方のうちに「薄壇」がみえる。明応四年(一四九五)六月二一日には、島津庄郡本こおりもと四〇町などとともに薄壇五町が忠節の賞として樺山長久に宛行われた(「島津忠昌宛行状」同文書)。その後天文年間(一五三二―五五)前後頃、「すゝき段」を樺山氏が売払っている(一二月一九日「新納忠勝書状」同文書)。天文一一年二月、北郷氏が北原氏領の志和池しわち水流縄瀬つるなわぜを攻撃して麦を薙払ったため北原氏と合戦になり、北郷方は四月二三日に北原領の山田やまだ木野この牛谷うしたに(現山田町)の麦作を散らした。


丸谷村
まるたにむら

[現在地名]出石町丸中まるなか

中谷なかだに村の西、国府こくふ道の南側の山谷にある。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一一六石余。出石封内明細帳によると拝領高一〇三石余・改出高一三石余、これらの内訳は屋敷三石余・麻畑二石余・田方八四石余・畑方二五石余、ほかに古新発高八斗余、家数一六・人数六〇。小物成として茶代米一石六斗余・山手米三斗余、桑代の真綿二二六匁余ほかを納めていた。生類憐みの令を受けて、元禄五年(一六九二)には庄屋六右衛門が村内にいる犬の覚書(多田家文書)を提出している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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