日本大百科全書(ニッポニカ) 「タウト」の意味・わかりやすい解説
タウト
たうと
Bruno Taut
(1880―1938)
ドイツの建築家。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の土木建築学校を卒業後、テオドール・フィッシャーに師事。1909年にF・ホフマンと共同事務所を開いて以来、ライプツィヒ博覧会の「鉄の記念塔」(1913)やドイツ工作連盟展の「ガラスの家」(1914)の独創性によって名を馳(は)せた。第一次世界大戦後は表現主義建築運動を推進、18年にグロピウスらと「芸術労働評議会」を結成し、また『アルプス建築』『都市の冠』『宇宙建築師』『都市の解体』を著して壮大なロマンと理想社会をうたい上げる。21年にはマクデブルク市の建築土木課長として果敢な色彩建築を実践し、24年からはベルリンで総計1万2000戸の住宅団地を建設した。
タウトは1932年に大モスクワ計画のため同地を訪れたのち、ナチス政権を逃れて日本へ亡命、33年(昭和8)5月から36年1月まで滞在した。日本では建築そのものの仕事に恵まれなかったものの、桂(かつら)離宮をはじめとする日本建築や日本の文化のあり方に多大の関心を示し、多くの著書を残した。また仙台と高崎で工芸の指導にあたり、日本の工芸界の方向を刷新させることになった。36年イスタンブール芸術大学教授に赴任、トルコ政府建築顧問として建築活動を再開したが、38年12月アンカラで客死した。
[高見堅志郎]
『タウト著、篠田英雄訳『日本美の再発見』(岩波新書)』▽『土肥美夫、J・ボーゼナー他著『ブルーノ・タウトと現代』(1981・岩波書店)』