ジョン(読み)じょん(英語表記)Thomas Edward John

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョン」の意味・わかりやすい解説

ジョン
じょん
Thomas Edward John
(1943― )

アメリカのプロ野球選手(左投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のクリーブランド・インディアンスシカゴ・ホワイトソックス、ロサンゼルス・ドジャースニューヨーク・ヤンキース、カリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)、オークランド・アスレチックス投手としてプレー。野球選手としては困難といわれてきた肘(ひじ)への靭帯(じんたい)移植手術を施し、みごとに復活した左腕投手であり、これにより同様の故障をもつ選手に新たな道を開いた。現在、同手術は「トミー・ジョン手術」とよばれている。

 5月22日、インディアナ州テレ・ホートで生まれる。1961年、インディアンスに入団。1963年に大リーグに昇格したが、64年までの2年間で2勝しかできず、ホワイトソックスへトレードされた。1965年に14勝をあげて頭角を現わし、68年まで4年連続2桁(けた)勝利をマーク。1969年は9勝に終わったが、70年からふたたび5年連続2桁勝利をあげた。この間、1972年にはドジャースに移籍した。1974年のシーズンオフ、痛みのひかなかった左肘を手術。翌75年1シーズンはリハビリにあて、76年から復帰した。同年10勝、1977年には初の20勝もマークしてみごとに甦(よみがえ)った。1979年からはヤンキースに移り、80年まで2年連続して20勝を記録した。その後、数球団を渡り歩いたが、1987年にヤンキースで13勝したのが最後の活躍となり、89年限りで現役を引退した。実働年数は投手では歴代2位の記録である。

 実働26年間の通算成績は、登板試合760、投球回4710と3分の1、288勝231敗、防御率3.34、奪三振2245、162完投、46完封。

[山下 健]


ジョン(王)
じょん
John
(1167―1216)

プランタジネット朝第3代のイギリス王(在位1199~1216)。ヘンリー2世の末子あだ名は欠地王Lacklandで、出生時フランス国内の領土が3人の兄にすべて与えられていたことに由来。兄リチャード1世の十字軍出征中王位をうかがったが失敗。その死後即位。フランス王フィリップ2世の破門事件に乗じて大陸領領有を認められたが、ポアトゥー貴族らと係争してフランス王廷に召喚されたが出廷せず、フィリップ2世がかばっていた自分の甥(おい)を殺害してフィリップの怒りを買い、1204年大陸領の大部分を失った。さらに教皇インノケンティウス3世の推すスティーブン・ラングトンStephen Langton(1150?―1228)のカンタベリー大司教就任を抑えて1209年に破門された。1213年に教皇と和解。1215年に内外の失政を批判する貴族から「マグナ・カルタ」(大憲章)の署名を強いられた。しかしその実施をめぐり、教皇の支持を受けてふたたび貴族と対立、その内戦中に病没した。

[富沢霊岸 2022年11月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョン」の意味・わかりやすい解説

ジョン
John

[生]1167.12.24. オックスフォード
[没]1216.10.18/1216.10.19. ニューアーク
イギリス,プランタジネット朝第3代のイングランド王(在位 1199~1216)。本名 John Lackland。ヘンリー2世の第4子。「欠地公子(土地なし公子)」とも称される。兄リチャード1世の死後,王位継承権をもつ 3番目の兄ジョフリーの子アーサー(ブルターニュ公)を追放して即位。アーサーを推すフランスのフィリップ2世と戦って 1204年ノルマンディーを失い,続いて 1206年までにフランス内のイギリス領の大部分を失った。1205年カンタベリー大司教のヒューバート・ウォルターが死亡し,ローマ教皇インノケンチウス3世は後任にスティーブン・ラントンを推したが,ジョンはみずからの聖職者叙任権を主張して反対。1208年教皇はイングランドを聖務停止に処し,翌 1209年ジョンを破門。両者の争いは 1213年まで続いたが,結局ジョンは屈服し,イングランドを教皇に献上,みずからは教皇の封建的臣下としてあらためてイングランドを封土として受け,教皇に毎年 1000マルクを支払い,かつラントンを大司教に認める条件で和解が成立。1214年再びフランスに出兵したが,領地回復に失敗して帰国。積年の失政と圧政により貴族の不満が爆発し,内乱が勃発した。1215年ジョンはラニーミードで貴族の指導者と会見,その要求条項(→マグナ・カルタ)の承認を余儀なくされた。しかしジョンはただちにこれを教皇に訴え,教皇が『マグナ・カルタ』の無効と貴族指導者の破門を宣したため,内乱が再燃し,ジョンはロチェスター城を奪い,1216年1月北部諸州やスコットランド国境地方を略奪した。その後も精力的に戦闘を続けたが,後継者を指名することもなく,種々の問題を残したまま没した。

ジョン[ソールズベリー]
John of Salisbury

[生]1115/1120. サラム(現オールドサラム,ソールズベリー)
[没]1180. シャルトル
パリとシャルトルで活躍したイギリスのスコラ哲学者。ラテン名 Joannes Salesberiensis。小ヨハネ Joannes Parvusと呼ばれる。 1176年シャルトル司教。シャルトル学派に近く,人文学に力を注いだ。キケロに傾倒した彼は懐疑論者ではなく,感覚,理性,信仰の3者を認識の源泉としたが,人知の有限性を知り懐疑論者の謙遜な態度を尊重した。また理論の実践を重視して哲学を神愛と結合した。普遍問題ではアリストテレスの抽象論を土台に概念論的な立場をとった。『政体論』 Policraticus (1159) では神聖な法を中核とする有機体的国家を説き,専制を否定して,のちのスコラ政治論に影響を及ぼした。『超論理学』 Metalogicon (1159) は観察と実験を重視する学問論であると同時に,シャルトル学派を知るに貴重な資料である自伝を含んでいる。また『哲学諸説』 De dogmate philosophorumによって中世最初の哲学史家ともいわれている。

ジョン
John, Sir Augustus Edwin

[生]1878.1.4. ウェールズ,テンビー
[没]1961.10.31. ハンプシャー
イギリスの画家。スレード美術学校に学ぶ。 1903年ニュー・イングリッシュ・アートクラブの会員となって反アカデミズムの立場で活動。肖像画に秀作が多い。代表作『ほほえむ婦人』 (1910,テート・ギャラリー) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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