ジョン(読み)じょん(英語表記)Thomas Edward John

デジタル大辞泉 「ジョン」の意味・読み・例文・類語

ジョン(John)

[1167~1216]英国王。在位1199~1216。対仏戦に敗れて大陸内英領の大半を失い、ローマ教皇インノケンティウス3世からは破門され、さらに重税を課したため貴族の離反を招いて1215年マグナカルタ(大憲章)を承認。欠地王。

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精選版 日本国語大辞典 「ジョン」の意味・読み・例文・類語

ジョン

  1. ( John ) イギリス国王(在位一一九九‐一二一六)。ヘンリー二世の末子。あだ名は欠地王。一二〇四年フランス王フィリップ二世と争いフランスにおける所領の大半を失い、続いて教皇インノケンティウス三世と対立して破門された。その結果国土を教皇に献じ、改めて封土として受けた。一二一五年マグナ‐カルタに署名。(一一六七‐一二一六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョン」の意味・わかりやすい解説

ジョン
じょん
Thomas Edward John
(1943― )

アメリカのプロ野球選手(左投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のクリーブランド・インディアンスシカゴ・ホワイトソックス、ロサンゼルス・ドジャースニューヨーク・ヤンキース、カリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)、オークランド・アスレチックスで投手としてプレー。野球選手としては困難といわれてきた肘(ひじ)への靭帯(じんたい)移植手術を施し、みごとに復活した左腕投手であり、これにより同様の故障をもつ選手に新たな道を開いた。現在、同手術は「トミー・ジョン手術」とよばれている。

 5月22日、インディアナ州テレ・ホートで生まれる。1961年、インディアンスに入団。1963年に大リーグに昇格したが、64年までの2年間で2勝しかできず、ホワイトソックスへトレードされた。1965年に14勝をあげて頭角を現わし、68年まで4年連続2桁(けた)勝利をマーク。1969年は9勝に終わったが、70年からふたたび5年連続2桁勝利をあげた。この間、1972年にはドジャースに移籍した。1974年のシーズンオフ、痛みのひかなかった左肘を手術。翌75年1シーズンはリハビリにあて、76年から復帰した。同年10勝、1977年には初の20勝もマークしてみごとに甦(よみがえ)った。1979年からはヤンキースに移り、80年まで2年連続して20勝を記録した。その後、数球団を渡り歩いたが、1987年にヤンキースで13勝したのが最後の活躍となり、89年限りで現役を引退した。実働年数は投手では歴代2位の記録である。

 実働26年間の通算成績は、登板試合760、投球回4710と3分の1、288勝231敗、防御率3.34、奪三振2245、162完投、46完封。

[山下 健]


ジョン(王)
じょん
John
(1167―1216)

プランタジネット朝第3代のイギリス王(在位1199~1216)。ヘンリー2世の末子。あだ名は欠地王Lacklandで、出生時フランス国内の領土が3人の兄にすべて与えられていたことに由来。兄リチャード1世の十字軍出征中王位をうかがったが失敗。その死後に即位。フランス王フィリップ2世の破門事件に乗じて大陸領領有を認められたが、ポアトゥー貴族らと係争してフランス王廷に召喚されたが出廷せず、フィリップ2世がかばっていた自分の甥(おい)を殺害してフィリップの怒りを買い、1204年大陸領の大部分を失った。さらに教皇インノケンティウス3世の推すスティーブン・ラングトンStephen Langton(1150?―1228)のカンタベリー大司教就任を抑えて1209年に破門された。1213年に教皇と和解。1215年に内外の失政を批判する貴族から「マグナ・カルタ」(大憲章)の署名を強いられた。しかしその実施をめぐり、教皇の支持を受けてふたたび貴族と対立、その内戦中に病没した。

[富沢霊岸 2022年11月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョン」の意味・わかりやすい解説

ジョン
John

[生]1167.12.24. オックスフォード
[没]1216.10.18/1216.10.19. ニューアーク
イギリス,プランタジネット朝第3代のイングランド王(在位 1199~1216)。本名 John Lackland。ヘンリー2世の第4子。「欠地公子(土地なし公子)」とも称される。兄リチャード1世の死後,王位継承権をもつ 3番目の兄ジョフリーの子アーサーブルターニュ公)を追放して即位。アーサーを推すフランスのフィリップ2世と戦って 1204年ノルマンディーを失い,続いて 1206年までにフランス内のイギリス領の大部分を失った。1205年カンタベリー大司教のヒューバート・ウォルターが死亡し,ローマ教皇インノケンチウス3世は後任にスティーブン・ラントンを推したが,ジョンはみずからの聖職者叙任権を主張して反対。1208年教皇はイングランドを聖務停止に処し,翌 1209年ジョンを破門。両者の争いは 1213年まで続いたが,結局ジョンは屈服し,イングランドを教皇に献上,みずからは教皇の封建的臣下としてあらためてイングランドを封土として受け,教皇に毎年 1000マルクを支払い,かつラントンを大司教に認める条件で和解が成立。1214年再びフランスに出兵したが,領地回復に失敗して帰国。積年の失政と圧政により貴族の不満が爆発し,内乱が勃発した。1215年ジョンはラニーミードで貴族の指導者と会見,その要求条項(→マグナ・カルタ)の承認を余儀なくされた。しかしジョンはただちにこれを教皇に訴え,教皇が『マグナ・カルタ』の無効と貴族指導者の破門を宣したため,内乱が再燃し,ジョンはロチェスター城を奪い,1216年1月北部諸州やスコットランド国境地方を略奪した。その後も精力的に戦闘を続けたが,後継者を指名することもなく,種々の問題を残したまま没した。

ジョン[ソールズベリー]
John of Salisbury

[生]1115/1120. サラム(現オールドサラム,ソールズベリー)
[没]1180. シャルトル
パリとシャルトルで活躍したイギリスのスコラ哲学者。ラテン名 Joannes Salesberiensis。小ヨハネ Joannes Parvusと呼ばれる。 1176年シャルトル司教。シャルトル学派に近く,人文学に力を注いだ。キケロに傾倒した彼は懐疑論者ではなく,感覚,理性,信仰の3者を認識の源泉としたが,人知の有限性を知り懐疑論者の謙遜な態度を尊重した。また理論の実践を重視して哲学を神愛と結合した。普遍問題ではアリストテレスの抽象論を土台に概念論的な立場をとった。『政体論』 Policraticus (1159) では神聖な法を中核とする有機体的国家を説き,専制を否定して,のちのスコラ政治論に影響を及ぼした。『超論理学』 Metalogicon (1159) は観察と実験を重視する学問論であると同時に,シャルトル学派を知るに貴重な資料である自伝を含んでいる。また『哲学諸説』 De dogmate philosophorumによって中世最初の哲学史家ともいわれている。

ジョン
John, Sir Augustus Edwin

[生]1878.1.4. ウェールズ,テンビー
[没]1961.10.31. ハンプシャー
イギリスの画家。スレード美術学校に学ぶ。 1903年ニュー・イングリッシュ・アートクラブの会員となって反アカデミズムの立場で活動。肖像画に秀作が多い。代表作『ほほえむ婦人』 (1910,テート・ギャラリー) 。

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現代外国人名録2016 「ジョン」の解説

ジヨン
知英
Ji-young

職業・肩書
歌手,女優

国籍
韓国

生年月日
1994年1月18日

出身地
京畿道坡州

本名
カン ジヨン〈Kang Ji-young〉

グループ名
旧グループ名=KARA(カラ)

受賞
日本レコード大賞企画賞(第52回)〔2010年〕,日本ゴールドディスク大賞洋楽部門ニュー・アーティスト・オブ・ザ・イヤー(第25回,2010年度)〔2011年〕,日本ゴールドディスク大賞ベスト・エイジアン・アーティスト(第26回・27回)〔2012年・2013年〕

経歴
5人組ガールズグループのKARAを結成。他のメンバーは、ギュリ(リーダー)、スンヨン、ハラ、ニコル。ニックネームは“末っ子”。グループ名のKARAは“甘いメロディー”という意味を持つ言葉で、リーダーのギュリが命名した。2007年アルバム「The First Bloooooming」で韓国デビュー。2009年のヒット曲「ミスター」ではお尻をセクシーに振る“お尻ダンス”を披露し、大ブームになった。2010年シングル「LUPIN」が韓国3大歌謡番組のヒットチャートで全て1位の3冠を達成し、国民的アイドルグループとなる。日本では、同年8月にシングル「ミスター」でデビューし、発売記念握手会には約1万人が駆けつけた。同年のオリコン新人セールス部門では同じ韓国ガールズグループの少女時代を抑え、13億円を売上げ第1位。年末のレコード大賞で企画賞も受賞するなど、“K-POP”ブームを巻き起こした。2011年日韓を通じて初主演のテレビ東京系連続ドラマ「URAKARA(ウラカラ)」が放送される。他のシングルに「ジェットコースターラブ」「GO GOサマー」など。2014年3月グループを脱退。同年日本の芸能事務所と専属契約を結び女優デビュー。同年10月日本テレビ系連続ドラマ「地獄先生ぬ〜べ〜」に出演。

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改訂新版 世界大百科事典 「ジョン」の意味・わかりやすい解説

ジョン
Elton John
生没年:1947-

イギリスのポップ・シンガー,ピアニスト,作曲家。少年の頃から小さな酒場のピアニストとして働きながら音楽学校に通い,卒業後はブルース歌手の率いるバンドでオルガンを弾いた。作詞家を志すB.トーピンと知り合って作曲に励み,合作した《レディ・サマンサLady Samantha》をジョンが歌って,1969年にシングル盤で発売。続いて初のLP《エンプティ・スカイEmpty Sky》を出して名声を獲得した。初めは,ピアノを弾きながら抒情的に歌うスタイルで,作品も格調の高いものが特徴だったが,たびたびアメリカに公演してファン層が広がるにつれ,作曲も大衆の好みに合わせる傾向が強まり,コンサートでの派手なアクションや奇抜な服装を売物とするようになった。97年には,ダイアナ元皇太子妃の葬儀で《キャンドル・イン・ザ・ウィンドCandle in the Wind》を歌い,その曲のシングルCDは空前の大ヒットとなった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ジョン」の意味・わかりやすい解説

ジョン[欠地王]【ジョン】

イングランド王(在位1199年―1216年)。ヘンリー2世の子。フランス国王フィリップ2世と戦ってフランス内領土の大半を失い,ローマ教皇インノケンティウス3世と争い破門されて屈服し,国内では重税を課すなど失政が多かった。このため,諸侯・僧侶の反抗を招き,マグナ・カルタによって彼らの権利を承認させられた。
→関連項目ブービーヌの戦プランタジネット朝ヘンリー[3世]

ジョン

英国の画家。ロンドンのスレード美術学校卒業後パリに遊学し,19世紀フランス絵画の影響を強く受けた。ロイド・ジョージ,G.B.ショーなど名士の肖像を描き,手堅い素描力と鋭い性格描写を示した。

ジョン

英国のロック歌手,作曲家,ピアノ奏者。1968年ソロ・デビュー。米国に活動拠点を置き,1972年の《ホンキー・シャトウ》からアルバム7枚が連続で全米ヒットチャート1位を獲得,トップ・スターの地位を確立,1970年代を代表するポップ・シンガーとなった。軽快なロックンロールとバラードの両方を得意とし,奇抜なファッションでも有名。1980年代以降もコンスタントに作品を発表し続けている。

ジョン(箏)【ジョン】

(そう)

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和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典 「ジョン」の解説

ジョン【(朝鮮)】

朝鮮料理の一つ。野菜・肉・魚介類などに小麦粉と溶き卵をつけ、油で焼いたもの。または、小麦粉を水で溶いた生地に具材を混ぜ、お好み焼きのように平たく焼いたもの。後者では、ねぎを用いた「パジョン」が代表的。◇後者のタイプは「チヂミ」ともいう。

出典 講談社和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典について 情報

367日誕生日大事典 「ジョン」の解説

ジョン

生年月日:1167年12月24日
イングランド王(在位1199〜1216)
1216年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジョンの言及

【中世科学】より

…14世紀になると,こうしたアリストテレス的自然学のもつもろもろの難点が指摘され,〈ガリレイの先駆者〉たちが登場することとなる。それは1277年のパリの司教タンピエÉtienne Tempierの異端断罪に端を発し,アリストテレスの学説が批判されると,イギリスではブラドワディーンを中心にダンブルトンのジョンJohn of DumbletonやスワインズヘッドRichard Swinesheadらが,アリストテレス運動論の数学的難点を指摘し,この克服のために新たな数学的定式化を試み,そのなかには,ガリレイの〈落体の法則〉を先取りするものも現れた。大陸ではビュリダンを中心に,ニコル・オレーム,ザクセンのアルベルト,インヘンのマルシリウスMarsiliusらが,アリストテレス運動論の自然学的難点に注目し,あらためて〈インペトゥス理論〉を発展させ,〈運動量〉の概念,〈慣性〉の法則,〈等加速運動〉の幾何学的定式化などに向かった。…

※「ジョン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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