久世郡(読み)くせぐん

日本歴史地名大系 「久世郡」の解説

久世郡
くせぐん

面積:一三・九平方キロ
久御山くみやま

山城盆地の南西部に位置する。かつての久世郡のうち、北西の一部は京都市、東部は宇治市、南部は城陽市となったため、現在の久世郡は木津きづ川と宇治川の合流点東に、両川に挟まれた沖積地と巨椋おぐら池干拓によって陸地化された地域の一部を占める久御山町一町である。

当地域は山城盆地の底にあたり、標高は一一メートル内外で、昭和一六年(一九四一)巨椋池干拓以前は同池に盆地を流れる河川のほとんどが流入し、そのために起こる洪水によって多大の被害を受けてきた。

〔原始〕

旧久世郡域では旧石器時代までさかのぼる遺物・遺跡は現在確認されていない。城陽市長池ながいけ森山もりやま遺跡(縄文―古墳時代の複合遺跡)や、城陽と宇治市にかけての東部丘陵にある車塚くるまづか古墳(前方後円墳)を中心とする約九〇基の古墳群が知られているが、現久世郡域には、わずかに大字佐山さやま小字新開地しんかいち付近に土師器散布と、同所の小字北代きただい付近で若干の須恵器の発見があるにすぎない。

巨椋池周辺の低湿地は、古代人の住居地としては適していなかったと考えられるが、その反面、魚鳥の狩猟地として早くより人々の生活の場となっていたことは容易に推察される。

〔古代〕

当地辺りには早くより県が設置されていたらしく、「日本書紀」仁徳天皇一二年一〇月の条に「大溝を山背の栗隈県に掘りて田にく」とあって、栗隈くりくま県に灌漑用水路として大溝が掘られたことが知られ、現久世郡を南北に通るふる川に比定されている。これらの土地開発にたずさわった氏族に、栗隈県主としての栗隈氏の存在を推測することができ、その他平安京遷都以前より、郷名を負うた水主直・殖栗連・葉栗臣や榎室連・巨椋連・黄文氏などがいたことも確かめられる。

久世郡の成立時期は不明であるが、和銅二年(七〇九)一〇月二五日付弘福寺田畠流記帳(正倉院文書)に「山城国久勢郡田壱拾町弐佰参拾捌歩 陸田参拾町壱段弐佰陸拾壱歩」とあり、また「山城国風土記」逸文に「久世の郡 水渡みとの社 み名は天照高弥牟須比命 和多都弥豊玉比売命なり」とみえる。なお、天平勝宝元年(七四九)一一月三日付の東大寺奴婢帳(東南院文書)に「久西郡」の異記がみえる。郡衙の位置は、城陽市寺田てらだ正道しようどう遺跡に比定される。

条里遺構は消滅しつつあるが、現郡域でははやしいちつぼつぼはちつぼ佐山さやまななつぼ・八の坪・十六じゆうろく佐古さころくつぼ十五じゆうご市田いちだに一の坪・よんつぼ・五の坪などの地名が残る。久世郡の条里は第一坪を各里の東南角に置いて西進する千鳥式の坪の配列になり、里の界線は古川の流路に合致するといい、巨椋池沿岸の一部・旧木津川流路・京都飛行場跡(佐古東北部)以外の地域については、ほぼ条里地割の復元が可能である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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