久右衛門町(読み)きゆうえもんちよう

日本歴史地名大系 「久右衛門町」の解説

久右衛門町
きゆうえもんちよう

[現在地名]岡崎市久右衛門町

伝馬てんま上中切かみなかぎりより北裏へ南北に通ずる町。北は山を越えれば稲熊いなぐま方面へ通ずる。南は伝馬通を越えて専福寺小路せんぷくじこうじしま町へ通ずる。町の長さ二町八間・幅二間一尺。岡崎宿伝馬役町の一。もとは久右衛門小路町といった。久衛小路きゆうえこうじ町とも称した。町名は、本陣服部専左衛門の前に本陣を勤めた磯貝久右衛門の名からとった。磯貝家が伝馬町のこの小路角に本陣を構えていたのは享保(一七一六―三六)の頃である。享和二年書上に延享四年(一七四七)検地とあるので、町の形成は享保頃からであろう。小野氏系図(小野家文書)には、その祖先が天文年中(一五三二―五五)安城(現安城市)より岡崎にきて元禄一三年(一七〇〇)までこの地に住んだとある。

久右衛門町
きゆうえもんちよう

[現在地名]和歌山市久右衛門丁

勘定長屋かんじようながやから南に延びる縦町で、西は東長ひがしなが町四―六丁目にあたる。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図には東側に長く「久右衛門町奉行組」、西側に「久右衛門町足軽」とあり、軽輩長屋があったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報