乙吉郷(読み)おとよしごう

日本歴史地名大系 「乙吉郷」の解説

乙吉郷
おとよしごう

益田市乙吉町・今市いまいち町地域にあった、益田庄を構成する内部の単位所領。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に、益田庄の一部として「おとよし 九丁」とみえる。同年九月二六日の乙吉郷下司宛の預所下文(長府毛利文書)によると、新しく下司の給田一町を引募ることが認められ、益田庄全体の庄官とは別に乙吉郷独自の庄官(下司)が設置されている。乙吉が郷としてみえるのはこの史料だけで、寛喜三年(一二三一)一一月一二日の関東御教書(同文書)では、乙吉保の地頭に対し安嘉門院御所造営費用の一部(銭五〇〇文)を納入するよう命じられている。正応三年(一二九〇)四月二九日の尊印譲状案(原屋文書)では乙吉別符とみえる。しかしこれらの名称はいずれも部分的ないし一時的なもので、一般的には村とよばれ、「乙吉・土田両村」と連称されることが多かった。この乙吉郷(保・別符・村)の庄官は、先の預所某下文案や関東御教書などからも知られるように、承久の乱後に新しく地頭に任じられたようで、地名を取って乙吉氏を称した。建長七年(一二五五)三月一五日の北条時頼書状(益田家文書)にみえる「益田庄内乙吉并土田村」の地頭「石見国御家人乙吉小太郎兼宗」である。乙吉氏はもともと藤原(益田)氏の一族で、益田氏などと協力して古代益田郷の一部を開発し、乙吉郷の領有を認められ、のち益田氏と共同で所領を九条摂関家に寄進し益田庄を成立させたと考えられる。しかし益田庄成立後も益田庄や益田氏に対する乙吉郷および乙吉氏の自立性は強く、それが乙吉保・乙吉別符などとよばれる理由でもあった。永仁七年(一二九九)「乙吉村地頭道祐」が田地・狩倉以下のことをめぐって益田本郷地頭代(益田氏)と争っているのも、そうした乙吉郷地頭のもつ強い自立性を示すものであろう(同年四月二四日「六波羅下知状案」益田家譜録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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