日本大百科全書(ニッポニカ) 「益田氏」の意味・わかりやすい解説
益田氏
ますだうじ
石見国(いわみのくに)の豪族。平安後期、那賀(なか)郡伊甘郷(いかみごう)(島根県浜田市)に土着して御神本(みかもと)氏を称した石見国司(こくし)藤原国兼(ふじわらのくにかね)を祖とし、曽孫(そうそん)兼高(かねたか)の代より美濃(みの)郡益田荘(ますだのしょう)(益田市)に本拠を移して益田氏を称したと伝えられる。益田兼高は、1184年(元暦1)源頼朝(みなもとのよりとも)から石見国押領使(おうりょうし)に補任(ぶにん)され、美濃郡を中心に国内の3分の1を領したといわれるが、その論拠となる史料は南北朝期の「紛失状案」であり、事実とするには慎重を要する。史料上明確となるのは益田兼季(かねすえ)の代からである。鎌倉期を通じて三隅(みすみ)・福屋(ふくや)・周布(すふ)氏などの庶家を国内に分出し、彼らも御家人(ごけにん)として幕府に把握され、独立性が強かった。なお三隅氏は庶家ではなく、御神本氏の惣領家(そうりょうけ)にあたるという説もある。南北朝期の内乱過程で益田惣領家の系統はとだえ、庶家の兼見(かねみ)が名跡を継ぎ、1383年(弘和3・永徳3)足利義満(あしかがよしみつ)から安堵御教書(あんどみぎょうしょ)を、大内義弘(おおうちよしひろ)から守護不入(ふにゅう)の特権を得て、以後大内氏に属した。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)を経るなかで、有力庶家や石見国衆吉見(よしみ)氏などを抑えて勢力を拡大、また大内家重臣の陶(すえ)氏とは姻戚(いんせき)関係にあり、密接な間柄にあったが、1557年(弘治3)藤兼(ふじかね)の代に大内氏が滅亡すると、毛利(もうり)氏に属した。その子益田元祥(もとよし)は、毛利一族の吉川元春(きっかわもとはる)の娘を妻として1万2500余石を領し、毛利家重臣として活躍、関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長(ぼうちょう)2国に減封されると、長門国(ながとのくに)須佐(すさ)(山口県萩市)に移住して6200余石(のち1万1000石)を領し、萩(はぎ)藩(長州藩)の財政再建に尽力した。江戸期は萩藩の永代家老。維新後は男爵。
[舘鼻 誠]
『矢富熊一郎著『益田市史』(1963・益田郷土史矢富会)』▽『『近世防長諸家系図綜覧』(1966・防長新聞社)』▽『『萩藩閥閲録 第1巻』(1967・山口県文書館)』▽『福田栄次郎著「石見国益田氏の研究」(『戦国大名論集 6 中国大名の研究』所収・1984・吉川弘文館)』▽『西村武正編『益田氏と須佐――毛利藩の永代家老』(1997・須佐町教育委員会)』