朝日日本歴史人物事典 「乾峰士曇」の解説
乾峰士曇
生年:弘安8(1285)
鎌倉末・南北朝時代の臨済宗の僧。諡号は広智国師。筑前博多(福岡県)の人。永仁6(1298)年,筑前承天寺の南山士雲について出家し,永く随侍したのち南山が開山した鎌倉崇寿寺の住持となり,その法を嗣いだ。建武4/延元2(1337)年東福寺の第17世となり,貞和3/正平2(1347)年に南禅寺の第20世となった。しばしば関東へも下向し,文和年間には建長寺(第33世),円覚寺(第25世)の両五山を兼住,延文2/正平12(1357)年には後光厳天皇の勅を承け,内裏で諸経を講義した。鎌倉時代から南北朝への政治的騒乱のなかで,京都と鎌倉とを往還して活躍した。<著作>『乾峰和尚語録(抜関要)』『見性義記』
(石井清純)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報