明極楚俊(読み)みんきそしゅん

精選版 日本国語大辞典 「明極楚俊」の意味・読み・例文・類語

みんき‐そしゅん【明極楚俊】

中国、元代の臨済宗の僧。明極派の祖。勅号は仏日焔慧禅師。虎巖浄伏の法を嗣ぎ径山寺、浄慈寺などに居り、僧録司もつとめた。元徳二年(一三三〇)招かれて来日し、後醍醐天皇北条高時帰依を受け、建長寺南禅寺建仁寺などに歴住。著に「九会語録」。(一二六二‐一三三六

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デジタル大辞泉 「明極楚俊」の意味・読み・例文・類語

みんき‐そしゅん【明極楚俊】

[1262~1336]中国元代の臨済宗の僧。1330年(元徳2)来日し、摂津国広厳寺を開き、建長寺南禅寺建仁寺に歴住した。勅号は仏日焔慧禅師。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明極楚俊」の意味・わかりやすい解説

明極楚俊
みんきそしゅん
(1262―1336)

鎌倉末期に来日した臨済(りんざい)宗の僧。中国、慶元府(けいげんふ)(浙江(せっこう)省)の人。俗姓は黄(こう)氏。霊隠寺(りんにんじ)の虎岩浄伏(こがんじょうふく)の法を嗣(つ)ぎ、諸寺を歴住したのち、招かれて1330年(元徳2)竺仙梵僊(じくせんぼんせん)を伴って来朝した。後醍醐(ごだいご)天皇に宗要を問われて説き、仏日燄慧禅師(ぶつにちえんえぜんじ)の号を賜った。北条高時(ほうじょうたかとき)に請われて建長寺に住したが、勅により南禅寺を経て建仁寺へ移った。また摂津(兵庫県)広厳寺(こうごんじ)の開山となる。1336年(延元1・建武3)9月27日、建仁寺の方丈で示寂。著に『明極楚俊和尚(わじょう)語録』がある。

[中尾良信 2017年4月18日]

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改訂新版 世界大百科事典 「明極楚俊」の意味・わかりやすい解説

明極楚俊 (みんきそしゅん)
生没年:1262-1336

鎌倉末期に来日した中国の禅僧。仏日燄慧(えんえ)禅師の号を勅賜。南宋の明州慶元府に出生,12歳で出家し,天童,浄慈,径山各寺の首座を歴任。1329年(元徳1)来日し,大友貞宗の招聘と安達高景の外護を受け摂津広厳寺を開山,のち北条高時に請われて鎌倉建長寺の住持となった。33年(元弘3)には京の南禅寺住持,次いで建仁寺住持と後醍醐天皇の帰依を得て五山の要職を歴任した。後醍醐の復位を予言し,湊川に赴く楠木正成に教えを与えたという伝えがある。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「明極楚俊」の解説

明極楚俊 みんき-そしゅん

1262-1336 元(げん)(中国)の僧。
中統3年生まれ。臨済(りんざい)宗。元徳元年(1329)竺仙梵僊(じくせん-ぼんせん)をともなって来日。後醍醐(ごだいご)天皇,北条高時の帰依(きえ)をうけ,鎌倉建長寺,京都の南禅寺,建仁寺の住持をつとめた。摂津広厳寺(兵庫県)をひらく。建武(けんむ)3=延元元年9月27日死去。75歳。諡号(しごう)は仏日燄慧(えんね)禅師。

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世界大百科事典(旧版)内の明極楚俊の言及

【漢詩文】より

…当時,中国には笑隠大訢(しよういんたいきん)という禅僧が出て,禅四六の作法を一定し,これを〈蒲室疏法(ほしつそほう)〉と称したが,中巌円月,絶海中津はこの法を体得した。またこの時代には,清拙正澄(せいせつしようちよう),明極楚俊(みんきそしゆん),竺仙梵僊(じくせんぼんせん)など,中国僧の来朝があり,これらの人の作品は,正真正銘の“漢”文だったので,五山文学中とくに光彩を放った。その後義堂周信,絶海中津も和様に流れることきわめて少なかった。…

※「明極楚俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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