日本大百科全書(ニッポニカ) 「高峰顕日」の意味・わかりやすい解説
高峰顕日
こうほうけんにち
(1241―1316)
鎌倉時代の臨済宗の僧。後嵯峨(ごさが)天皇の皇子。京都東福寺円爾弁円(えんにべんえん)の門に入って具足戒(ぐそくかい)を受け、ついで建長寺において兀庵普寧(ごったんふねい)に随侍。下野那須(しもつけなす)(栃木県大田原(おおたわら)市)に韜晦(とうかい)して雲巌(うんがん)寺を開創したが、彼の風を慕って禅徒が雲集した。無学祖元(むがくそげん)が来朝するや、建長寺、円覚寺において彼に参じ、印可(いんか)を受けて法を嗣(つ)いだ。顕日は当時、横岳(よこだけ)(福岡県)崇福寺(そうふくじ)の南浦紹明(なんぽじょうみょう)とともに、天下の二甘露門(かんろもん)と仰がれた。門下からは夢窓疎石(むそうそせき)、天岸慧広(てんがんえこう)(1273―1335)、太平妙準(たいへいみょうじゅん)(生没年不詳)など多数の禅傑を輩出し、鎌倉末期の関東禅林の主流を形成した。勅諡(ちょくし)号は仏国応供(おうご)広済国師。語録、和歌集などがある。
[藤岡大拙 2017年7月19日]