日本歴史地名大系 「亀ヶ崎城跡」の解説 亀ヶ崎城跡かめがさきじようあと 山形県:酒田市亀ヶ崎城下亀ヶ崎城跡[現在地名]酒田市亀ヶ崎一丁目酒田市内の南東部、最上川とその支流新井田(にいだ)川の合流地点北東側に位置する中世―近世の城跡。東禅寺(とうぜんじ)城・酒田城ともよばれた。現存の遺構は近世のもので、標高三メートルの地に、南側の最上川、西側の新井田川、東と北の低湿地を巧みに利用して構築した平城。寛延年間(一七四八―五一)の亀ヶ崎御城絵図(飽海郡誌)によれば、本丸は二の丸と幅六間余の堀で区切られ、周囲は幅四―七間余、高さ一丈余の土居がある。二の丸は城代屋敷で土居があり、本丸とともに四囲は幅一二―一八間、深さ二―四尺の堀をめぐらす。三の丸は侍屋敷地で、周囲を幅五―六間、高さ一丈三尺―一丈五尺の土居で囲まれ、南・北と東は幅一一―二三間余、深さ二―四尺の二重堀があり、西側は新井田川を利用している。当城の前身は最上川下流左岸の袖(そで)の浦(うら)にあった坂田氏の居城で、のち現在地近くに移ったと伝える。一五世紀後半頃最上川以南には大宝寺(だいほうじ)(現鶴岡市)を拠点とした武藤氏が勢力を有していた。文明一〇年(一四七八)飽海(あくみ)郡に勢力を伸張してきた支族の砂越氏に対抗するため、川北の拠点として前述の城の跡に東禅寺城を構築したといわれる(「庄内物語」など)。当時は現在地より東寄り、大町(おおまち)付近にあったとされる(酒田市史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by